第九十七話 河内平定
永禄七年十一月。京の都を「黄金の法」で塗り替えた今川義元は、次なる一手へと動いた。矛先が向けられたのは、三好家の本拠地であり、畿内の軍事・政治の要衝である河内国である。
京から南下する今川の軍勢は、前衛を松平元康、柴田勝家、後備を明智光秀が固めるという、今や今川傘下における最強の陣容であった。かつて三好長慶が健在であった頃、河内は激戦の舞台となり、今川勢を挟撃で苦しめた地であったが、今回はその様相が劇的に異なっていた。
今川勢が河内に入ると、各地の城砦からは戦う意志が感じられなかった。
三好長慶という精神的支柱を失った三好一族は、山崎での敗北以降、深刻な内部崩壊を引き起こしていた。三好家の名跡を継いだばかりの三好重存は、若さゆえにこの巨大な組織を掌握しきれておらず、将兵の心は離散の危機に瀕していた。
この事態を危惧した宿老の三好長逸、三好政生、石成友通の三人は、若き重存を補佐する体制を構築。世にいう「三好三人衆」として政権の維持を図り始めるが、彼らの権威をもってしても、長慶一人が放っていた圧倒的な「重み」を代替することは不可能であった。
「……まるで、魂の抜けた抜け殻を歩いているようですな」
先頭を行く松平元康は、無人の如く静まり返った河内の村々を眺め、複雑な表情を浮かべた。かつて山崎の泥濘で、死に物狂いの突撃を見せたあの三好兵たちの熱量は、もはやどこにもなかった。守備に就いていた国衆たちは、今川の黄金の旗印を目にするや否や、次々と門を開いて降伏を申し出た。
河内平定は、まさに雪崩を打つような速さであった。
三好長慶が愛し、最期までその権威の象徴とした居城、飯盛山城。年若い重存の下知では将兵の不安を抑えられず、夜陰に乗じて三好の旗は次々と下ろされ、夜明けには今川の二引両が風にたなびいていた。
「長慶殿。貴殿がこの地で見た夢は、一体いかようなものであったのか」
義元が飯盛山城に入った時、そこにあったのは荒らされた執務室と、長慶が好んだ連歌の懐紙の残骸だけであった。
河内北部の盾である若江城。今川軍が接近するや否や、城内では動揺が走った。三人衆の督戦も虚しく、城兵たちは「今川の法の下では税が免除される」という噂に色めき立ち、戦わずして城を捨て、今川への帰順を申し出た。
南河内の巨城、河内守護の拠点として難攻不落を誇った高屋城。三人衆はここを最終防衛線とする目算であったが、城を支える国衆たちが次々と離反。重存と三人衆は、今川本隊が包囲する前に、命からがら阿波へと逃亡、あるいは和泉方面へと後退した。
河内が今川の軍門に下る中、唯一、不気味な動きを見せていたのが松永久秀であった。
彼は大和との境にそびえる信貴山城に立てこもり、三人衆が右往左往し、拠点が次々と落ちゆく様をただ静観していた。あまりの呆気なさに、長慶の死がまた偽りで久秀の策謀かと一時警戒もしたがそれもないようだった。久秀は重存を助けるために兵を出すことも、今川に即座に降ることもせず、ただひたすらに「様子見」を貫いていた。
義元は城壁に立ち、眼下に広がる河内平野を見つめた。
河内をほぼ無傷で手に入れたことにより、今川義元は京・近江・河内・和泉を繋ぐ巨大な支配圏を確立した。三好三人衆による合議体制は早くも破綻の兆しを見せ、もはや畿内で今川に公然と逆らう勢力は存在しないに等しかった。
「河内の静寂は、長慶殿の亡き故か。しかしこれで堺が射干に入った」
義元は、明智光秀を呼び寄せ、最終的な堺入りの策を練り始めた。武力で踏み潰すのではない。堺の富を、その知恵を、今川の「法」の一部として吸収する。それは、戦国史上かつてない「富と法の融合」への挑戦であった。
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