第九十話 山崎の戦い 六
山崎の湿地帯に、凄まじい鉄の激突音が響き渡った。
浅井長政率いる千五百の精鋭騎馬隊。その猛烈な突撃を、わずか三百の兵で受け止めたのは、淡路の主、安宅冬康であった。
「兄上には指一本触れさせぬ! 者共、防げ! 兄上を守り抜くのだッ!」
冬康の叫びは、普段の温厚さからは想像もつかぬほどに鋭く、そして悲壮であった。長政の騎馬隊は、本陣の側面を突き勝利を確信していたが、駆け付けた冬康の軍に足止めを食らう。冬康の兵たちは、己の体が馬に踏み潰されようとも、その脚に縋りつき、槍を突き立て、浅井の進撃を文字通り肉の壁となって阻んだ。
長政は焦燥に駆られていた。街道正面では篠原長房が依然として猛攻を続けており、この急襲が失敗に終われば、逆に自分が孤立しかねない。
「敵は小勢ぞ!怯むな、かかれっ!」
浅井軍の槍が、冬康の供回りを次々と葬り去り、ついに冬康本人を捉える。冬康は刀を振り下ろしたが、多勢に無勢、その内の槍の一本が冬康の脇腹を深く貫いた。
「ぐふっ……!」
鮮血が冬康の口から溢れ、その体は馬上で大きく揺らいだ。しかし、冬康は倒れなかった。己の体を貫くその槍の柄を、血まみれの手で掴み、力任せに引き寄せたのだ。
「こらえよ……! こらえよッ!! 兄上を……兄上を守れぇッ!!」
臓腑を貫かれた者の声とは思えぬ咆哮。その一喝が、恐怖に震えていた長慶の本陣の兵たちの魂を震わせた。
「冬康様が命を盾にしておられるのだぞ! 続け! 三好の意地を見せよ!」
逃げ腰だった旗本たちが、冬康の叫びに呼応して武器を取り、獅子のごとき勢いで浅井勢に逆襲を始めた。
長政は、冬康の執念に圧倒された。本陣の抵抗は激しさを増し、さらに左翼への援軍の一部が戻りつつある土煙が見えた。
「……くっ、ここまでか! 全軍、引け! 潮時だ!」
長政は断腸の思いで馬を返した。近江の雷鳴は、一人の男に阻まれ、ついに本陣を陥落させることなく撤退していった。
静寂が、本陣を包み込んだ。
長政の撤退を見届けた冬康は、糸が切れたように落馬した。そこへ、よろめく足取りで三好長慶が駆け寄った。
「冬康! 冬康ッ!!」
長慶は泥の中に膝をつき、弟の体を抱き上げた。脇腹の穴からは、止まらぬ血が溢れ出している。
「……馬鹿者、馬鹿者が! 儂は、もう長くはない。儂が亡き後、三好を率いるのはお前だと……そう決めていたのだ。お前が死んで、どうするのだ!」
長慶の声は震え、目からは大粒の涙が零れ落ちた。かつて天下を差配した「五畿内の主」も、今はただ、死にゆく弟を前にした一人の兄でしかなかった。冬康は、薄れゆく意識の中で兄の顔を見上げ、微笑んだ。
「……不出来な弟が……優れた兄を守るのは、世の道理にございます……」
「馬鹿を申せ……! 道理が逆じゃ。兄が弟を守れぬ世など……!」
長慶は弟の手を握りしめた。だが、冬康の指先からは急速に熱が失われていく。
「……これで、ようやく……先に逝った実休兄上、一存に……顔向けができます……。兄上……今川とのいく、さ……」
冬康の言葉が途切れた。その瞳から光が消え、腕が力なく泥の上に落ちる。
その刹那。
硝煙と血の臭いが立ち込める凄惨な山崎の戦場に、場違いなほどに澄んだ音が、長慶の耳に届いた。
リィィ……リィィ……。
それは、冬康が愛した詩歌の世界、あるいは彼が守ろうとした淡路の静かな夜に鳴く、鈴虫の音色であったのかもしれない。
長慶は、冷たくなった弟を抱きしめたまま、天を仰いで慟哭した。
戦場を渡る風の中に、まだ鈴虫の音が聞こえる気がした。
安宅冬康といえば鈴虫の逸話。
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