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義元英雄伝  作者: 日向 守
上洛編

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第八十九話 山崎の戦い 五


山崎の合戦は二日目の正念場を迎えていた。

天王山での明智光秀と松永久秀の死闘、そして街道正面での三好家最強の矛、篠原長房、安宅冬康と今川の盾、松平元康、岡部元信の激突。戦場は熱を帯び、凄惨な肉弾戦が繰り広げられていた。


その喧騒を離れ、淀川沿いの湿地帯、南の泥濘に身を潜める一軍があった。浅井長政率いる近江勢である。


「……まだだ。まだ動くな。呼吸を泥に沈めよ」


長政は愛馬の首を優しく撫で、兵たちを制した。

目の前には、深い霧と背の低い葦が広がる広大な沼地がある。馬の脚を奪い、重い甲冑を纏う武士にとっては死地にも等しい場所だが、長政はあえてこの南の端を大きく迂回する道を選んでいた。


街道では、柴田勝家が猛牛のごとき突撃を敢行し、三好長逸、政生、岩成友通の陣を蹂躙し始めていた。勝家の狙いは明白だ。自らが派手に暴れることで、三好軍の注意を自分に惹きつけ、浅井のために決定的な「隙」を作ること。


「勝家殿、しかと受け取ったぞ……」


長政の瞳に、三好軍の陣形の変化が映った。左備えの苦戦に焦った本陣が、ついに動きを見せたのである。


三好軍本陣。三好長慶は咳を抑えながら、戦況報告を聞き届けていた。


「報告! 左備え、柴田勝家の猛攻に抗しきれず、陣形が崩壊の危機にあります! 長房殿も正面の元康に釘付け、応援に回る余裕がございませぬ!」


長慶の顔に苦渋が走る。左備えを失えば、中央の車掛かりの陣は完全に側面を晒すことになる。


「……致し方なし。本隊から三千を割き、長逸らを助けに向かわせよ」


この長慶の「手当て」こそが、全軍の均衡をわずかに崩した。本陣を守るべき旗本たちが左翼へと移動を開始し、長慶の周囲は手薄となった。


車掛かりの頂点の一つを指揮していた長慶の実弟、安宅冬康はこの「歪み」を誰よりも早く察知した。戦場の空気に敏感な彼は、南の湿地帯から漂う不穏な殺気、そして兄の旗本の移動を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「石見(安宅石見守)、指揮を任せる。車掛かりの回転を止めるな」


「冬康様!? どこへ行かれるのです!」


冬康は愛馬の首を返し、鋭い眼光を背後に向けた。


「私は三百を率いて兄上を守る。……南の沼地が動いている。兄上の首に、牙が届こうとしているのだ!」


冬康は信頼する精鋭三百のみを連れ、泥濘を蹴り立てて本陣へと急行した。主力である「車掛かり」の回転を維持させつつ、己の身を挺して兄の危機を救わんとする、冬康なりの捨て身の采配であった。


「今だ! 者共、近江の誇りを見せよ! 目指すは三好長慶の首のみッ!」


長政の叫びが、湿地の霧を切り裂いた。

迂回を終え、本陣の側面へと回り込んでいた千五百の騎馬隊が一斉に加速する。沼地を抜けた瞬間、彼らは矢のごとき速さで長慶の座す幕舎へと突き進んだ。


「浅井だ! 北近江の浅井長政が来たぞ!」


混乱が三好本陣を駆け抜ける。正面の激戦に全神経を集中させていた兵たちにとって、側面から迫る騎馬の轟音はまさに絶望の響きであった。長政は先頭に立ち、迫りくる雑兵を左右になぎ払う。その視線は、ついに刀を抜こうとする三好長慶を捉えた。


「三好修理大夫長慶! その首、浅井新九郎長政が頂戴する!」


ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。

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