第八十八話 山崎の戦い 四
天王山から降り注いでいた死の雨が、止んだ。
松永久秀の捨て身の囮に光秀が釘付けにされたその瞬間、山崎の隘路を埋め尽くす三好の兵たちの目に、獣のような光が戻った。
「鉄砲は止んだぞ! 今だ、一気に押し潰せッ!」
篠原長房の野太い号令が山間に反響する。三好軍一万三千が展開する「三角の車掛かり」が、その巨大な歯車を凄まじい速さで回転させ始めた。
まず、篠原長房率いる第一陣五千が、咆哮とともに松平元康と岡部元信の正面へ激突した。
「……ぬうっ!」
元康の三河衆が構える陣盾が、衝撃でひしゃげる。だが、三河衆がその圧力を押し返そうとした瞬間、篠原隊は深追いせずに左側後方へと鮮やかに翻った。
間髪入れず、右側後方から安宅冬康率いる第二陣三千が、疲弊の無い新手の勢いで突っ込んでくる。
「兄上のために……道を開けよ!」
温厚な冬康の、悲壮なまでの決意を秘めた突撃。盾と盾が噛み合い、槍が折れ、最前線の三河武士たちが泥の中に踏み潰されていく。
「元康殿、持ちこたえよ! ここが正念場ぞ!」
側面の西美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)が、死に物狂いで予備兵を投入する。崩れかけた「盾の壁」に三人衆の精鋭が割り込み、肉の壁となって三好の波を押し戻す。しかし、二陣が引けば即座に三陣が襲いかかる。
この「旋回」は、今川の盾に息をつく暇さえ与えない、絶え間なき連撃であった。
一方、天王山の麓で松永勢に大きく回り込まれた柴田勝家は、悔しさに奥歯を噛み締めていた。
「……小癪な松永め、儂の顔に泥を塗りおって」
だが、勝家はただ憤る男ではない。車掛かりの主力が中央に集中する影で、その側面を固める三好家古参の将たち、三好長逸、三好政生、岩成友通の軍勢が、こちらの隙を窺っている。
「光治、聞け。この中である程度自由に動けるのは、我らと浅井殿だけじゃ」
副将の不破光治が勝家を仰ぎ見る。勝家は愛槍を固く握り直し、不敵に笑った。
「奴らの目を、北と正面に釘付けにするぞ。まずはあの三人を痛打し、北に敵の目を向ける。浅井殿ならその隙を見逃すまい。……北近江の若殿に、獲物を仕留める機会を作ってやるのだ!」
「者共、続け! 尾張と美濃の意地を見せてやれッ!」
柴田勝家率いる精鋭が、三好長逸らの陣営に向けて猛牛のごとき勢いで突進した。
「かかれ柴田」の異名が伊達ではないことを証明するように、勝家の槍が三好三人衆の隊列をなぎ払う。長逸や岩成友通の必死の防戦も、勝家の凄まじい突破力の前には飴細工に等しかった。
この突撃は、三好軍にとって予期せぬ「激震」であった。
長房や久秀が元康、元信と光秀に固執するあまり、遊撃戦力としての柴田勝家を過小評価していた代償が、今、三好軍の左翼側面に突き刺さる。
霧の向こう、湿地帯の淵で待機していた浅井長政の瞳に、柴田が切り開いた「一筋の亀裂」が映った。
「……柴田殿、見事。その隙、我ら近江勢が頂く!」
山崎の地獄に、近江の雷鳴が轟こうとしていた。
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