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義元英雄伝  作者: 日向 守
上洛編

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第八十七話 山崎の戦い 三


山崎の地を包み込むのは、昨夜よりもさらに深い、乳白色の川霧であった。視界はわずか数歩先。この白き闇の中、三好軍の巨大な歯車が音もなく回り始めた。


街道正面では、篠原長房と安宅冬康が率いる一万三千の兵が、鋭い「三角の車掛かり」の陣を形成。一陣が元康、元信の盾を削り、疲弊する前に次陣が入れ替わる絶え間なき連撃の準備を整えていた。


しかし、その「波」を成立させるためには、どうしても排除せねばならぬ物があった。天王山の中腹から戦場を支配する、明智十兵衛光秀の鉄砲射撃である。


「……明智光秀。貴様の目に、この闇が透けて見えるか試してやろう」


松永久秀は、弟である内藤宗勝と共に、手勢を率いて天王山の西斜面に取り付いていた。天王山の麓を守る柴田勝家隊を避け、大きく迂回。険しい斜面を、彼らは巨大な竹束を盾にしながら、執念で這い登っていた。


「撃てッ! 一兵たりとも登らせるな!」


光秀の側近藤田行政の鋭い号令とともに、光秀が子のように慈しみ、鍛え上げてきた精鋭鉄砲隊が火蓋を切る。その銃撃は、霧の中であっても驚異的な精密さを誇った。狙うは竹束の僅かな隙間、あるいは竹束を支える兵の露出した足元や指先である。


放たれた弾丸は次々と竹束に吸い込まれ、あるいはその隙間を縫って三好兵の急所を的確に貫く。光秀の鉄砲隊は、ただ数に任せて撃つのではない。一射ごとに確実な死を運ぶ狙撃であった。


「……流石よ。これでは一歩も進めん」


内藤宗勝が、竹束の影で土を噛みながら呻いた。光秀の布陣はまさに難攻不落。近づくことさえ死を意味していた。


しかし、松永久秀は、部下が次々と撃ち抜かれる凄惨な光景を眺めながら、その口元に不敵な笑みを浮かべていた。


「よい、それでよいのだ。……光秀、貴様のその丁寧な仕事ぶりこそが、我らの狙いよ」


光秀は、銃身から上がる熱気と霧の中で、ふと冷たい違和感を覚えた。自分の鉄砲隊は完璧に役割をこなしている。柴田隊を迂回して登ってきた三好の別働隊を天王山の斜面に釘付けにし、一歩も近寄らせていない。


だが、それゆえに。

光秀の、そして鉄砲隊の全神経は、目の前の「竹束の壁」を排除することに集中しすぎていた。


「……しまった、街道したかッ!」


光秀が視線を眼下の街道へと向けようとした瞬間、遥か下方から、大地を揺らすような地鳴りと、何千もの咆哮が霧を突き抜けて響いてきた。


久秀の真の目的は、光秀の首を獲ることではなかった。

光秀の目を天王山の崖に釘付けにし、街道を突き進む三好本隊からその銃口を逸らすこと、それこそが、久秀の仕掛けた罠であった。


「光秀! 貴様が我ら囮を丁寧に掃除している間に、街道の三河、遠江衆は三好の波に呑み込まれるぞ!」


久秀の叫びと呼応するように、街道では篠原、安宅による「三角の車掛かり」が加速を開始した。光秀の支援射撃が途絶えたその一瞬の隙を突き、三好の精鋭たちが元康と元信の盾の壁に肉薄する。


「行政! 街道へ銃口を戻せ! 急げッ!」


光秀の焦燥に満ちた声が響くが、一度食いついた久秀と宗勝の別働隊は、捨て身の覚悟で竹束を押し立て、光秀の陣を正面から拘束し続ける。


天王山の陣で、光秀は己の「完璧さ」が裏目に出たことを悟った。

一方、眼下の地獄では、松平元康、岡部元信が光秀の援護なきまま、三好の全力をその身で受け止めようとしていた。


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