第八十二話 迫り来る嵐
摂津、茨木城。
今川軍を京へと押し戻した三好軍の陣中には、勝利の歓喜よりも、より濃密で、肌を刺すような殺気が渦巻いていた。
今川軍は撤退した。だが、それは三好家にとっての勝利ではない。今川義元の首を獲り、その黄金の法を完膚なきまでに叩き潰すまで、この戦いに終わりはない。本丸の奥、薄暗い部屋で座す三好長慶の前に、松永久秀が静かに膝を突いた。久秀の端正な顔には、一筋の汗と隠しきれぬ苦渋の色が滲んでいる。
「……長慶様、申し訳ございませぬ。予想だにせぬ狙撃術に阻まれ、今川義元、ならびに松平元康を討ち漏らしました。追撃を命じましたが、内藤宗勝も深手を負い、これ以上の深追いは被害を増すばかりと判断し、軍を引きました」
久秀の冷静な報告を聞いても、長慶は動じなかった。
かつての長慶であれば、ここで久秀の判断を労ったであろう。しかし、今の長慶の瞳には、かつての慈悲深い名君の影はない。弟たちを亡くし、愛息義興を失い、孤独の果てに「復讐」という名の狂気に身を浸した男の、青白い炎が宿っている。
「……構わぬ。追い詰められたネズミを噛み殺すよりも、大軍を以て正面から今川の黄金を泥に沈める方が、儂の心は晴れるというもの」
長慶の声は、血を吐くような震えを帯びていた。それは肉体の衰えから来るものではなく、内側に秘めた憎悪が咆哮を上げているがゆえの震えであった。
「久秀。奴らは京へ戻り、再び法を説き、都を我が物顔で練り歩く。三好家がこれまで築き上げてきたすべてを塗り潰さんとしている。……許さぬ。儂の命あるうちに、今川義元の息の根を止めねば、義興に顔向けができぬ」
長慶は、摂津から京に至る地図を払い、身を乗り出して久秀を真っ直ぐに見据えた。
「もはや小細工は不要よ。奴らを徹底的に叩く。すべてを飲み込むほどの波を作るのだ。久秀、直ちに触れを出せ。四国の篠原長房、そして淡路の安宅冬康を呼べ」
久秀は一瞬、息を呑んだ。その名が出ることの重さを、誰よりも理解していたからだ。
篠原長房。三好実休亡き後の四国三好領を支える柱石であり、その武勇は畿内まで轟いている。そして安宅冬康。長慶の実弟であり、淡路水軍を束ねる海の覇者である。彼らを呼ぶということは、三好家の全版図、そのすべての兵力を一箇所に集約させるという、まさに「三好家のすべて」を賭けた勝負を意味していた。
「……長慶様、正気でございますか。四国と淡路から主力を抜けば、背後の隙を狙う者が現れましょう。」
久秀の諫言に、長慶は冷酷な笑みを浮かべた。
「背後など、もはやどうでも良い。義元さえ討てば、天下は再び儂の手に戻る。背後の敵など塵に等しい。……久秀、準備を進めよ。四国、淡路から、三好の血を引く者、三好に恩義ある者、すべてをこの摂津へ集めろ。京への入り口を三好の三階菱で埋め尽くすのだ」
長慶の言葉は、もはや命令ではなく、呪詛に近い響きを持っていた。彼は己の寿命が尽きようとしていることを自覚している。だからこそ、その最後の残り火をすべて使い切り、今川義元という巨大な影を焼き尽くそうとしていたのだ。
久秀は、主君のあまりにも深い執念に、一筋の寒気を感じた。
(この御方は……もはや天下を治めるためではなく、今川を道連れにして死の淵へ降りようとしておられるのか)
だが、久秀もまた、三好の家臣である。主君が狂乱の戦を望むのであれば、それを最高の舞台に整えるのが己の役目。久秀は深く頭を垂れ、応じた。
「……御意。三好家の総力、即刻摂津へと召集いたします。篠原長房殿には阿波、讃岐の精鋭を、安宅冬康様には淡路の船団を率いて上陸するよう、早馬を飛ばします」
長慶は満足げに頷くと、再び城外の闇を見つめた。
その視線の先には、黄金の輝きに包まれた京の都がある。
三好長慶。
愛する者を失い、一度は死を覚悟した巨星が、憎悪を糧にして再び光を放ち始めた。その光は、京で再編を急ぐ今川義元の黄金を焼き尽くさんとするほどに猛烈であった。
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