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義元英雄伝  作者: 日向 守
上洛編

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第八十一話 敗北


摂津の泥濘から這い出し、今川軍は京へと帰り着いた。だが、その行軍に出陣時の華やかさは微塵もない。茨木城にて三好長慶の反撃に遭い、命からがら逃げ延びたという事実は、将兵の肩を重く沈ませていた。勝竜寺城の一角、薄暗い評定の間。今川義元の前に座す諸将の顔は、一様に泥と苦渋にまみれていた。


「……申し訳ございませぬ。三河の勇士たちを多く失いました。此度の敗戦、すべては私の采配の不徳にございます」


松平元康が、血の混じった泥が乾いた床に、額を擦りつけた。殿しんがりを務めた三河衆の消耗は、もはや「壊滅」に近い。元康自身の声も掠れ、その肩は悔しさで微かに震えていた。

義元は沈黙を守っていた。摂津、河内の制圧。その目的は果たされず、今川は多大な損害を被って京へ押し戻されたのである。しばらくの沈黙の後、義元はおもむろに口を開いた。


「……元康、面を上げよ。其方一人の責ではない。三好長慶という男の執念……死の淵にあった男があれほどの力を示すとは、余も含め全員が読み誤ったのだ」


続いて、松永・内藤勢を食い止め、元康を救い出した明智光秀が、懐から文を取り出した。


「義元公。此度の撤退、遅ればせながら某が駆けつけることができたのは、この文があったればこそにございます。二条御所に放たれた、匿名の矢文……」


光秀がその文を差し出す。義元の傍らの竹中半兵衛が文を見つめ、口を開いた。


「この筆跡……間違いない。美濃の……一色龍興様です」


「龍興だと?」


義元が眉をひそめる。かつて美濃を追われ、流浪の身となったはずの元当主の名に、一座に驚きが走った。


「奴は今、三好の客将として摂津にいたはず。何故、敵である我らに内情を報じた?」


柴田勝家の問いに、半兵衛は文を見つめたまま答えた。


「……これは、龍興様なりの……私への恩返しにございます」


かつて主従として決裂した過去。龍興は三好の陣営にありながら、かつての軍師・半兵衛が窮地に陥るのを黙って見ていられなかったのであろう。それは利害を超えた、奇妙で不器用な情であった。


義元は、龍興の矢文を指先で弄び、やがてそれを火鉢の中に投じた。


「一色龍興か。三好の懐にありながら、かつての縁を優先させたか。……半兵衛、其方は果報者だな。だが、敵の情けに救われたという事実は、この敗北をより重くする」


義元は立ち上がり、夜の京を見つめた。


「三好長慶は再起し、三好勢の士気は天を衝くばかり。そして河内の地は再び三好の手に戻った。我らは一度、この京で牙を研ぎ直さねばならぬ」


敗北の味を噛み締めながら、今川軍は再編という名の雌伏の時に入った。主従の恩讐が絡み合った一通の矢文が、今川軍を辛うじて全滅から救ったという事実は、半兵衛の心に消えぬ決意を残した。

敗戦を認め、今川軍は京での防衛と再編に舵を切る。


ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。

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