第七十八話 長慶再起 八
今川主力が松永の包囲を強行突破し、京へと続く街道を駆け抜けていく。その背後、茨木城の門前では、撤退の時間を稼ぐための「殿」を引き受けた松平元康と三河衆が、まさに死地の中にあった。
三好長慶の執念が生んだ猛攻は、三河衆の陣を削り続ける。本多忠勝が『蜻蛉切』で敵を弾き飛ばし、酒井忠次が必死に隊列を維持するが、主力との距離が開くほどに、三好勢の包囲は厚くなっていく。
「……ここが限界か」
元康は泥にまみれた頬を拭い、傍らの影に命じた。
「半蔵、何でも良い、茨木城にて騒ぎを起こし、三好勢の気を逸らせ。城内で何かが起きれば、長慶とて動揺するはずだ」
「……御意」
低い声が応じた刹那、服部半蔵の姿は戦場の煙の中に溶けるように消えた。
半蔵は、戦場の喧騒を逆手に取った。
三好の兵たちが元康を仕留めんと前方へ殺到している隙を突き、彼は茨木城の石垣に取り付いた。戦場に立ち込める霧と硝煙、そして泥濘。忍びにとって、これ以上の舞台はなかった。
鉤縄が音もなく城壁の角に掛かる。半蔵は猫のような身のこなしで壁を駆け上がり、守備兵の視線を縫って城内へと侵入した。城内は、長慶の出陣によって不気味なほど静まり返っていたが、半蔵が狙ったのは「破壊」ではなかった。
彼は、城内で最も高く、戦場から最も目立つ「物見櫓」へと向かった。
そこには、三好家の威信を示す旗印が掲げられていた。半蔵は懐から、忍び特有の「発煙筒」を取り出した。それはただの煙ではない。火薬に松脂と特殊な硫黄を混ぜたもので、一度火を付ければ、本物の火事よりも遥かに不気味で黒々とした煙を、天を突くほどに噴き上げる代物であった。
「三好の執念、その拠り所を揺さぶる」
三河衆を今まさに飲み込もうとしていた長慶の耳に、背後からの兵たちの悲鳴が届いた。
「見よ! 城から煙が上がっているぞ!」
「まさか、本丸が!? 敵が潜り込んでいたのか!」
長慶が振り返ると、背後の茨木城、その本丸の櫓から不気味なほど黒々とした煙が天を突くように立ち昇っていた。
「何だと……城が焼かれているのか!? 何奴が、どこから潜り込みおった!」
長慶の瞳に、激しい狼狽の色が浮かぶ。元康の狙い通り、長慶の執念は、目の前の敵よりも「自らの拠点の異変」へと一瞬だけ逸れたのである。三好軍の将兵たちも、帰るべき城の変事に足を止め、攻撃の手が目に見えて緩んだ。
「友通! 政生! 一部は城へ戻れ! 城内の敵を排除せよ!」
長慶の命令により、三河衆を包囲していた三好軍の陣容に、僅かながら「隙」が生まれた。
「今だ! 退くぞ!」
元康はその一瞬を逃さなかった。
「忠勝、忠次! 陣を解き、一気に北の湿地帯を抜ける! 殿の役割は果たした。一人でも多くの三河者を京へ生還させるのだ!」
「承知! 遅れるな、続けッ!」
本多忠勝が最後尾で三好の追撃を振り払い、石川数正が負傷者をまとめ上げる。半蔵の工作によって混乱に陥る三好勢を尻目に、三河衆は泥濘を蹴り立て、主力の後を追って駆け出した。
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