第七十四話 長慶再起 四
「さらに今の三好勢を見られよ。長慶が立ち上がったことで、兵たちの士気は異様に高い。絶望から歓喜に転じた軍勢ほど、恐ろしいものはありません。この狂乱の渦中でわずかでも背を見せれば、たちまち食い殺され、撤退はただの潰走に終わるでしょう。……これを切り抜けるのは、至難の業です」
その言葉を裏付けるように、前方の茨木城から地響きのような音が響いた。
「開門ッ!」
櫓の上で、三好長慶が太刀を振り下ろした。固く閉ざされていた茨木城の城門が、重々しく左右に開かれる。鉄砲の煙が立ち込める中、城内から溢れ出してきたのは、血に飢えた獣のような三好の精鋭たちであった。
「今川義元、其方の黄金の法は、この場で崩れ散る運命にある! 儂の息子が味わった苦痛を、その身に刻め! 一人も残さず、殲滅せよ!」
長慶の凍てつくような叫びと共に、三好軍が城内から溢れ出した。逃げる隙さえ与えぬ、文字通りの殲滅戦である。
「……やはり、そう来るか」
本陣から静かな、だが全軍の喧騒を突き抜けるような通る声が響いた。今川義元であった。彼は黄金の扇子を茨木城へと向け、泥にまみれながらも戦い続ける三河勢を凝視した。
「元康、其方にこの『正面』を預ける。三好の執念を、その身ですべて受け止めよ」
元康は一瞬、目を見開いたが、即座に膝を突いた。
「長慶の狂気を受け止め、一歩も引かぬ『盾』となれるのは、其方と三河衆をおいて他になし。元康よ、余が背後の松永を討つまでの間、三好の業火を食い止めてみせよ。これは法を守るための、最も過酷な試練よ」
「……謹んでお受けいたします。今川の法、この元康が命に代えても繋ぎ止めましょう」
元康の瞳に、三河武士特有の、底知れぬ静かな闘志が宿った。半兵衛は義元の意図を瞬時に汲み、即座に軍令を整えた。
「…… 元康殿が正面で盾となっている間に、義元様、勝家殿、そして岡部元信殿の全主力をもって、背後の松永勢に当たります! 突破口を開くのです!」
元康は立ち上がると、刀を抜き放って、城門から押し寄せる三好軍を正面に見据えた。
「皆の者、聞け! 義元公より殿の命を賜った! これより、我らが三河衆は、あのお方の盾となる! 我らが崩れれば今川は滅び、日の本は再び闇に沈む。三河武士の粘り、長慶に見せてやれ!」
「「「おおおおおッ!」」」
地鳴りのような咆哮。元康率いる三河衆が、決死の壁となって茨木城の門前に踏みとどまった。押し寄せる三好の狂風を、彼らは一歩も引かずに受け止める。
その背中で、義元は馬に飛び乗り、黄金の扇子を高く掲げた。
「元信、勝家! 全軍反転せよ! 狙うは松永弾正! 法を汚す闇を払うのだ! あの男に、今川の底力を見せつけよ!」
今川軍の主翼、柴田勝家と岡部元信の部隊が、泥濘の中で巨大な龍が身を翻すように、その矛先を背後の松永久秀へと向けた。
摂津の泥土の上で、今川の黄金、元康の三河魂と畿内の覇者の執念が、激突しようとしていた。
ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。
御評価いただければ幸いです。




