第七十二話 長慶再起 二
今川軍二万が摂津の泥濘に沈み、長慶の怨嗟と久秀の謀略に絡め取られんとしていたその時。静寂に包まれた京の二条御所、守備に就いていた明智光秀の元に、一本の矢が鋭い音を立てて飛び込んだ。
「何奴だ!」
近習が叫ぶが、闇の中に人影はない。光秀が拾い上げた矢には、粗末な紙が巻き付けられていた。そこには、ただこう記されていた。
『長慶健在』
光秀が外を覗いた時には、既にそこには風が吹き抜けるのみであった。誰が、なぜこの情報を知らせに来たのか。その真意を知る術はなかったが、光秀の直感は、これが紛れもない真実であることを告げていた。
「……半兵衛、借りは返したぞ」
矢を放った人物は一人呟き風の中に消えた。
「三好長慶が、健在……。ならば三好勢の従順はやはり擬態か!」
光秀の脳裏に、川沿いの狭隘な地形と、背後の芥川山・高槻の諸城が浮かぶ。それらがすべて反転したならば、義元軍に逃げ場はない。
「全軍に伝えよ! 義元公、絶体絶命なり! 摂津へ急行する!」
側近の藤田行政が驚愕して問い返す。
「しかし、光秀様! 京の守備を離れては公方様の御身が……それに、足軽を連れての移動では間に合いませぬ。今川の本隊が摂津に入って既に久しく、これより向かっても……」
光秀は迷いなく、愛馬に飛び乗った。
「公方様は信虎公と藤孝殿にお任せする! 今、今川が崩れれば京も日ノ本も再び闇に沈む。法を救うには、今この瞬間の速さこそが必要なのだ!」
光秀は抜き放った刀を掲げ、御所に集結した兵たちへ向けて叫んだ。
「騎馬の者のみ集まれ! 徒歩の者は後から来い! 露払いはいらぬ、一刻を争う!」
蹄の音が京の都に鳴り響く。光秀を先頭に三千の騎馬隊が、南へと駆け抜けた。
光秀は馬を潰す覚悟で突き進む。光秀の瞳には、かつて美濃を追われ、流浪の果てに見つけた「黄金の法」という希望の光が宿っていた。
「……死なせはせぬ。義元公、貴方が掲げた法は、こんな泥濘で錆び付いてよいものではない!」
背後で遅れる歩兵たちを顧みず、光秀は風となって川を駆け下る。降将に城を任せたと聞いていた光秀は馬を飛ばしながら、河内・芥川山城が、いま如何なる状態にあるかを熟慮していた。それを正しく見極めねば、三千の騎馬は救軍ではなく、単なる「死への行軍」に成り果てるからである。
光秀は、最悪を含む三つの可能性を想定していた。
最も可能性が高いのは、敵将が城門を閉ざして要塞化している状況である。
もし長逸が完全に武装を整え、街道を封鎖していれば、芥川山城は義元軍の退路を断つ「堅牢なる蓋」となる。この場合、正面からぶつかれば騎馬隊は鉄砲の餌食だ。光秀は、街道を捨てて西側の峻険な山道を迂回し、敵の意表を突く「背後からの強襲」を視野に入れていた。
二つ目は、松永久秀が描くさらに深い陥穽である。城に僅かな兵だけを残し、あえて光秀を城内へ誘い込む。光秀が城を奪還したと安堵した瞬間に、周囲の山々に潜む伏兵が包囲し、救援部隊ごと殲滅する策だ。
「久秀ならばやりかねぬ」
そして三つ目。義元が残した僅かな今川の目付けや守備兵たちが、裏切りに抗い、今なお城の一部を占拠して戦っている可能性である。
もし城内で混乱が続いていれば、三好側は外敵への備えが疎かになっているはずだ。その混乱を利用して突入すれば、一気に城を制圧できる。
「いずれにせよ、芥川山を落とさねば義元公に道はない」
光秀には、偵察を待つ余裕などなかった。彼は、自身の「読み」と、謎の矢文がもたらした「確信」をもって、芥川山城へ、三千の命と共に飛び込もうとしていた。
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