第六十九話 久秀という男
「……義元か。あの男が、儂の義興を殺したのだ」
その声を聞いた瞬間、久秀の背筋に電撃のような戦慄が走った。愛息・義興の死によって廃人同然となり、暗い寝所で死を待つばかりであった主君・三好長慶が、いま、自らの足で立ち上がっていた。
病に蝕まれた身体を無理やり引き起こし、怨嗟の炎を宿した眼光で宙を睨みつけるその姿。世間はこれを「狂気」と呼ぶだろう。嫡男の死を今川の黄金のせいにし、理を失った復讐者へと成り果てた姿を「没落」と嘲笑うだろう。だが、久秀にとっては違った。
「……おお、これだ。この峻烈、この覇気。これこそが私の知る三好修理大夫長慶様だ」
久秀は平伏しながら、こみ上げる笑いを抑えきれなかった。
久秀という男の忠義は、極めて歪で、かつ純粋であった。
かつて三好家が全盛を誇っていた頃、長慶の弟たち――十河一存や三好実休らが相次いで死を遂げた際、家中には「久秀が己の才を振るう邪魔な者たちを排除したのではないか」という疑念が渦巻いた。久秀の異才を妬む者たちは、「あの男はいずれ三好を乗っ取る」「主君の骨を噛み砕く獣だ」と長慶に讒言を繰り返した。
しかし、長慶だけは違った。彼はそれらの声をすべて退け、一度として久秀を疑うことなく、重用し続けたのである。
「久秀よ、其方の才を恐れる者が多い。だが、儂には分かる。其方のその鋭き牙は、儂という男を喰らうためではなく、儂という男を支えるためにあるのだとな」
そう言って笑った長慶の度量に、久秀は魂のすべてを投げ出した。三好という「家」はどうなってもよい。だが、自分を信じ抜いた長慶という「個」のためならば、久秀は喜んで泥を被り、鬼にもなれた。
今、目の前で復讐の鬼と化した長慶は、震える手で久秀の肩を掴み、耳元で呪詛のように命じた。
「久秀、儂の再起を秘し、義興の死の情報を流せ。義元軍を完全に油断させよ。そして必殺の領域まで誘い込み、徹底的に叩くのだ。三好の領土そのものを、義元を葬る墓標にせよ」
「御意にございます、長慶様。この久秀、地獄の底までお供つかまつる」
久秀は恍惚とした表情で応じた。
彼は即座に、主君の再起を隠蔽するための情報工作を開始した。今川軍の諸将が「三好は終わった」と信じ込み、祝杯を挙げているその裏で、久秀は自らの全てを懸けて、主君の望む「最高の復讐劇」の舞台を整え始めたのである。
久秀にとって、この戦いの結末が勝利である必要すらなかった。
主君・長慶が、その最期に相応しい巨大な敵を呪い、燃え尽きようとしている。かつて自分を信じ抜いてくれた主君が、再び覇者としての牙を取り戻した。その「狂おしき最期」を最も近くで支え、共に滅びることこそが、久秀の抱く唯一の、そして歪んだ忠義の結末であった。
「今川義元、貴様の黄金がどれほど尊かろうと、わが主君の恨みという名の業火を消すことはできぬ。……さあ、参られよ。摂津は、貴様の黄金が砕け散る、最高の墓所となろう」
松永久秀は、夜の闇に溶けるような不気味な笑みを残し、主君の復讐を完遂させるべく、静かに消えていった。
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