第六十八話 日ノ本の副王
今川義元が二条御所の静寂の中で将軍・足利義輝と「黄金の法」について語り合っていたその時、畿内の情勢は、誰もが予想だにしなかった変質を遂げようとしていた。山城侵攻において、あれほどまでにあっけなく無抵抗を貫いた三好家。その沈黙の正体は、三好の未来そのものであった若き将星の死であったが、その死こそが、今度は眠れる巨獣を狂乱の淵から呼び覚ますこととなったのである。
三好家の嫡男・三好義興。彼は父・長慶が心血を注いで育て上げた最高傑作であり、三好政権の正当性を担保する最後の希望であった。 長慶に比肩する才気、家臣を心服させる包容力、そして何より将軍・義輝とも義兄弟のような深い親交を結んでいた彼は、武力のみならず「理」を以て天下を治める新時代の主君として期待されていた。
事実、病に倒れ飯盛山城に隠遁同然であった父に代わり、実質的に三好軍を率い、今川の西進に対峙しようとしていたのは彼であった。しかし、その重圧が、以前から彼を蝕んでいた病を悪化させた。
今川軍が近江を席巻し、山城へ迫ろうとする最悪の時期に、義興は二十二歳の若さで没した。期待されていた世継ぎの喪失に、三好の将兵は激しく動揺した。「義興様さえおいでになれば」という絶望が防衛線を霧散させ、今川への無血開城を許したのである。
飯盛山城の奥深く、愛息の訃報に接した三好長慶は、当初、魂が抜け落ちた廃人の如き様相を呈していた。弟たちを次々と失い、最後の希望であった義興までもが、自分より先に逝った。この重なる悲劇は、かつての英明な覇者の心を完全にへし折ったかに見えた。
しかし、義元入京の報せが届いた瞬間、長慶の内で何かが決定的に壊れ、そして爆発した。
「……黄金だと? 義元か。あの男が、儂の義興を殺したのだ」
長慶の歪んだ思考は、一つの恐るべき「理」を構築した。今川が持ち込んだ「黄金の法」という新しき時代の波が、旧来の秩序を根底から揺るがし、その過酷な変革への心労こそが、繊細な義興の命を縮めたのだと。義元が黄金の光を都に振り撒いた瞬間に、三好の誇りであった息子は力尽きたのだと。
「許さぬ。儂の築いた畿内を、あの男の荒びにはさせぬ。黄金など、血の海に沈めてくれるわ!」
悲しみは激しい憎悪へと昇華された。長慶は傍らの太刀を掴み、病に侵された身体を無理やり引き起こした。その眼窩には、執念という名の昏い炎が宿っていた。長慶は、傍らに控える松永久秀を鋭い眼光で射貫き、低い声で命じた。
「久秀、儂の再起を秘し、義興の死の情報を流せ。義元軍を完全に油断させよ。そして必殺の領域まで誘い込み、徹底的に叩くのだ」
久秀はこの命に、不敵な笑みで応えた。彼は長慶の再起を厳重に秘匿し、あえて「義興の死による三好家の完全なる瓦解」という偽りの風聞を京の街と今川軍に向けて放った。
この「誘因の策」は、今川軍の諸将、とりわけ柴田勝家らの楽観を誘った。明智光秀、竹中半兵衛らが抱いた「あまりに静かすぎる」という疑念も、入京後の祝祭の熱狂の中に飲み込まれていった。
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