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義元英雄伝  作者: 日向 守
上洛編

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第六十四話 影の戦


甲賀の山々は、音を吸い込む深い霧に包まれていた。

今川軍の補給路を襲うのは、木々の隙間から放たれる無音の矢と、闇に紛れて喉元を掻き切る冷たい刃。信濃から潜入した武田の怪物・出浦盛清率いる甲州透破、再起を期す六角義治の執念、そして利にさとく動く甲賀衆の一部が手を結び、今川の「生命線」を執拗に蝕んでいた。


「……今川の連中には、この闇は深すぎると見えるな」


崖の上から今川の陣営を見下ろし、出浦盛清が呟いた。彼の指揮下にある甲州透破と六角の残党が、今まさに次の奇襲を仕掛けようとしたその時――。

背後の闇が、わずかに揺らいだ。


「三河を侮るな。その闇、我らが切り裂く」


低く、地を這うような声。出浦が振り向いた瞬間、そこには漆黒の装束に身を包み、鋭い眼光を放つ一人の男が立っていた。

服部半蔵正成。

松平元康の影として、三河の隠密組織を束ねる男。半蔵の背後から、同じく闇に溶け込んだ精鋭たちが、音もなく姿を現した。


甲賀の山中で、前代未聞の「影の戦」が幕を開けた。甲賀衆、甲州透破に対し、松平元康はあえて自ら陣頭に立ち、囮となって敵を誘い出した。


「半蔵、敵は我らの『焦り』を待っている。ならば、我らは動かぬ岩となろう。……三河武士よ、槍を捨て、盾を並べよ! 闇に惑わされるな、己の隣にいる戦友の息遣いだけを信じろ!」


元康の指揮により、三河勢は「円陣」を敷き、全方位からの奇襲を跳ね返す。敵が痺れを切らして姿を現した瞬間、闇に潜んでいた半蔵の部隊がその背後を突く。元康の「静」と半蔵の「動」が噛み合い、敵を確実に削り取っていく。


半蔵が武田の透破を次々と仕留めていく中、甲賀衆は動揺していた。


「今川のやり方は力攻めではない。服部半蔵……あの男は我らの『掟』を知り尽くしている」


半蔵は戦う一方で、甲賀の各里に矢文を放っていた。そこには、義元の名でこう記されていた。


『今川の黄金は、里を焼くためのものではない。甲賀の山を京への“道”として整備し、その通行税をすべて里に還元することを約束する』


武田が与えるのは「戦いの理由」だけであり、今川が提示したのは「繁栄」だったのだ。


山の頂近くで半蔵と出浦が対峙する。


「黄金で忍びの誇りが買えると思うな!」


出浦が煙玉を投げ、爆炎とともに間合いを詰める。しかし、半蔵はその動きを完全に読んでいた。


「誇りでは腹は膨らまぬ。民を飢えさせる誇りなど、ただの呪いだ。……我が主・元康殿が目指すは、忍びが忍びとしてではなく、人として生きられる世よ!」


激しい金属音が闇に響き渡った。出浦の曲刀を、半蔵の手槍が弾き飛ばす。周囲では、元康率いる本隊が六角残党を次々と制圧。退路を断たれた甲賀衆の一部は、義元が提示した繁栄の条件に、次々と矛を収めていった。


夜明け前。

甲賀の山々を覆っていた深い霧が、朝日とともに消えていく。

出浦盛清は負けを悟り、闇の中へと消え去った。守護者を失った六角義治は、今川の包囲網を辛うじて抜け、さらに西へと逃亡を余儀なくされた。

半蔵は、傷ついた装束を整え、元康の元へ戻った。


「殿、甲賀の闇、概ね払いましてございます」


元康は朝日を浴びる瀬田の唐橋を見据え、力強く頷いた。


「大儀であった。……これでようやく、義元公に最高の舞台を用意できる。」


長享・延徳の乱以来続いていた、甲賀衆と六角の繋がりはこうして断ち切られた。


ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。

御評価いただければ幸いです。

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