第六十三話 信玄の影
観音寺城が落ち、今川義元の黄金の旗が近江を席巻する影で、もう一つの戦いが始まっていた。
近江の南東に広がる険しい山々、甲賀。そこは、どの戦国大名にも完全に屈することのなかった「甲賀郡中惣」と呼ばれる地侍たちの独立地帯であり、迷路のような山道と数多の隠れ里を有する「忍びの国」。
今川の圧倒的な攻囲から逃れた六角義治・承禎父子は、この闇に紛れて再起の機を窺っていた。
甲賀の隠れ里、深い霧に包まれた寺の奥。六角義治の前には、今や奇妙な同盟が結ばれていた。
「……義治殿、今川の『黄金の法』とやらは、武士の誇りを銭で汚す毒にございます」
闇の中から声をかけたのは、武田信玄が放った透破の頭領、出浦盛清。彼は、信玄からの密命を受け、甲賀の地侍たちを「反今川」で束ね上げるべく暗躍していた。
「義元は京で華やかな夢を見るでしょう。だが、軍というものは胃袋で動くもの。この南近江、甲賀近辺を抜ける補給路を断てば、三万の軍勢もただの案山子にございます。信玄公が信濃より動くまでの間、我らと甲賀衆で今川の背後を引き裂いててやりましょうぞ」
義治はこの誘いに飛びついた。地元の利を知る六角の残党、武田の練り上げられた隠密工作、そして甲賀衆の変幻自在な忍術。三位一体となった遊撃戦が、今川の上洛軍の「生命線」を執拗に攻め始めた。
翌晩から、今川軍を戦慄させる遊撃戦が幕を開けた。
美濃から京へと続く補給路で、兵糧を運ぶ荷車が音もなく放たれた火矢によって焼かれ、今川の伝令が次々と消息を絶つ。
「敵の姿が見えぬ……。茂みから矢が飛んできたと思うた瞬間には、もう誰もおりませぬ!」
瀬田に布陣する義元の元には、悲痛な報告が相次いだ。無敵を誇る今川軍も、闇の中から一方的に刺される遊撃戦には、その巨体ゆえの脆さを露呈し始めていたのである。
義元は、本陣に届けられた焼き払われた荷車の残骸を静かに見つめていた。
「信玄の息吹が、甲賀の霧に混じっておるな……。十兵衛、この闇を払えるのは誰だ?」
明智光秀は、即座に思い当たる名を答えた。
「闇を払うには、光ではなく、より深い闇が必要にございます。……元康殿の下に伊賀の服部一族の者がいたかと」
義元は頷き、近習に命じた。
「松平元康を呼べ。そして、その影に潜む者も共にな」
ほどなくして、義元の前に現れた元康は、いつになく鋭い眼光を放っていた。
「元康よ。甲賀の山が荒れている。信玄の透破が六角と組み、余の喉元を締めようとしている。……この闇を裂き、上洛の背後の道を清める役目を任せる。其方の影を解き放て」
元康は深く一礼した。
「心得ました。三河武士の意地、そして服部の技、甲賀の深淵に刻んで参りましょう。……半蔵、頼むぞ」
元康が背後の闇に問いかけると、実体を持たぬ声が応えた。
「……御意。甲賀の掟、服部半蔵正成が塗り替えて御覧に入れます」
今川義元は、最も信頼を置く元康と、その影である半蔵を、毒の霧に包まれた甲賀へと投じた。服部一族の長・半蔵と、武田の怪物・出浦盛清。忍びの誇りを懸けた、闇と闇の戦いが始まる。
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