第六十一話 箕作城の戦い
南近江の要衝、観音寺城の奥の間。六角氏の現当主・六角義治は、父・承禎の慎重論を跳ね除け、強気の笑みを浮かべていた。彼の背後には、再起を狙う三好三人衆の援軍期待、そして武田信玄からの甘い囁きがあった。
観音寺城の広間では、今川義元の上洛要請を巡り、六角家の命運を分ける激しい激論が交わされていた。
「父上、何を日和っておられる! 我らは足利将軍家を幾度も支えてきた名門中の名門。駿河の『法師上がり』に膝を屈するなど、先祖代々への恥辱にございます!」
若き当主、義治の激昂に、隠居の身ながら睨みを利かせる父・承禎(義賢)が重々しく口を開いた。
「義治、目先の名誉で家を滅ぼすな。今川の勢いはもはや東海・美濃を飲み込み、浅井、北畠とも誼を通じている。今ここで義元を阻めば、我らは四面楚歌となるぞ。ここは一度上洛の先導を引き受け、機を伺うのが得策だ」
しかし、義治を支持する血気盛んな若手家臣団からは怒号が飛ぶ。
「今川の『黄金の法』など、つまるところ銭で武士の魂を買い叩く卑劣な策。近江の国人衆が皆あやつに靡けば、六角の支配は霧散いたしますぞ!」
「武田信玄公からも密使が届いております。『今川が近江で足を止めれば、我らも背後から牽制する』と。今こそ今川を叩き、天下に六角の武名を示す好機にございます!」
承禎は深く溜息をついた。信玄の言葉がいかに甘い毒であるか、老練な彼には見えていた。しかし、主導権を握る義治はついに立ち上がり、断を下した。
「決まりだ。今川の要求は拒絶する。観音寺城を核とし、箕作、和田山にて今川を阻む。今川義元、近江の峻険にその黄金の夢を沈めてくれるわ!」
近江の野に、水色桔梗の旗印と、松平の葵紋が翻った。先鋒、明智光秀と松平元康率いる八千の軍勢である。
六角軍一万は、難攻不落の観音寺城を核とし、支城である箕作城、和田山城に兵を配備。中でも、上洛軍の進軍を正面から塞ぐ和田山城には、精鋭六千を投入した。
「元康殿、敵は和田山に戦力を集中させておりますな。支城を用いた掎角の計……義治殿、なかなかの策士とお見受けする。しかし連携は取らせぬ」
光秀は馬上で遠くの城壁を眺め、静かに微笑んだ。元康は対照的に、重厚な兜の奥で鋭い眼光を光らせる。
「左様。我らの役割は、この六千をとどめ置くこと。一兵たりとも箕作へ向かわせぬ『釘』となれば良い。……三河の衆よ、盾を並べよ! 攻める必要はない、だが退くことも許さぬぞ!」
元康の指揮により、三河武士たちは和田山城を包囲。光秀の知略と元康の忍耐が、六角軍の主力をこの山城に完全に釘付けにする。
和田山が包囲で締め付けられている頃、今川義元率いる本隊三万は、音もなく箕作城へと肉薄していた。義元の狙いは、和田山を迂回し、観音寺城の急所である箕作城を一気に叩き潰すことにあった。
しかし、箕作城は想像を絶する堅城であった。切り立った崖の上に築かれた石垣と、迷路のように入り組んだ曲輪が今川軍を阻む。
「放てっ!」
今川軍の第一波に対し、城兵は岩を投げ落とし、狭間から火縄銃の雨を浴びせた。先陣を切った岡部、柴田の部隊が石垣に取り付くも、上部からの猛攻に耐えきれず、少なからぬ死傷者を出して一時撤退を余儀なくされる。
「ほう、さすがは名門六角の牙城。一筋縄ではいかぬか」
本陣で戦況を見守る義元の傍らで、竹中半兵衛が目を細めた。一度は攻勢を跳ね返した城兵たちの気勢は上がり、城内からは勝ち時を告げる鬨の声が響き渡る。
「義元公。力攻めは兵の命を捨てるだけ。ここは夜襲を行いましょう」
半兵衛の提案は、夜の闇に乗じた奇襲であった。ただし、単なる夜襲ではない。
「三万の軍勢すべてに松明を持たせ、城の前方を昼間のように照らし出します。そして、あえて誰もが登れぬと信じている背後の絶壁に、精鋭を送り込むのです。」
義元は頷いた。
「うむ。十兵衛たちが和田山を抑えている今こそ、この箕作を落とさねばならぬ。」
その夜、箕作城は文字通りに光にさらされた。 数万の松明が城の前方を照らし、城兵たちがその圧倒的な視覚的圧力に恐れおののいている隙に、岡部元信と柴田勝家率いる「決死隊」が、地元民の手引きで断崖絶壁をよじ登り、城の背後に回った。
「岡部元信、推参!」
元信の咆哮とともに、背後の門が内側から開かれた。正面で松明を掲げていた本隊が一斉に攻勢に出る。一度は攻勢を跳ね返した城兵たちも、前後からの攻撃、闇夜の混乱と圧倒的な兵数、そして「降る者には富を」という今川軍の叫びに、戦意を喪失していった。
わずか一晩の激戦の後、近江の要害・箕作城は陥落。 これにより、和田山に残された六千の精鋭は、背後を断たれた孤島と化した。
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