第五十九話 藤吉郎
駿府館の一室。丹羽長秀の背後に隠れるようにして現れたその男は、一見すればどこにでもいる、あるいはどこにいても場違いな男であった。猿のように落ち着きなく辺りを見回し、それでいて氏真と目が合った瞬間に見せたその瞳の光は、深淵の底で獲物を待つ獣のごとき鋭さを持っていた。
「お初にお目にかかりまする! 苗字はございませんが、尾張中村の出身で中村藤吉郎と名乗っております! 丹羽様のお供をして、この駿府の土を踏ませていただきました!」
藤吉郎は床に額を叩きつけるような勢いで平伏した。そのあまりに芝居がかった、しかし剥き出しの活力に、氏真は圧倒されながらも、先ほど長秀と交わした器の話を思い出していた。
「藤吉郎と言ったか。面を上げよ」
氏真の声に、藤吉郎は顔を上げた。クシャリと歪んだその顔には、名門・今川の嫡男に対する畏怖と、それを食い扶持に変えようとする強かな計算が同居している。
「其方、何にでも気が回り長秀から木綿藤吉と呼ばれているそうな」
藤吉郎は、卑屈な笑みを浮かべながら答えた。
「へへっ、恐れ入ります。私は尾張の貧しい農民の出でございます。土を掘り、泥にまみれ、明日の食い扶持のために親を恨み、天を呪って育ちました。武士の作法など、丹羽様に拾われてから形ばかり覚えたに過ぎませぬ。私にあるのは、泥の中で覚えた『損得』と『生への執着』だけでございます」
農民出身。今川という数百年続く名門に育ち、高貴な教育を受けてきた氏真にとって、それは想像を絶する世界の住人であった。氏真は、父・義元が目指す「黄金の法」の真意を、この泥を知る男の目から確かめるべく、核心に触れる問いを投げかけた。
「ならば聞く。藤吉郎、其方ら民草にとって『名君』とは何だ? 慈悲深いことか、戦に強いことか、あるいは家柄が良いことか」
広間に静寂が落ちた。長秀は固唾を呑んで見守り、藤吉郎の言葉を待つ。藤吉郎は一瞬だけ、その猿のような茶目っ気を消し、驚くほど澄んだ現実を語り始めた。
「……お怒りにならねぇで下せぇ。我ら民草の本音を言えば、名君だの名門だのそんな立派な言葉はどうでも良いのでございます」
藤吉郎は再び頭を低く下げ、震える声で続ける。
「戦や疫病で死なず、洪水で流されず、凶作で餓えずに過ごさせてくれる。 ただそれだけを叶えてくれれば、主が誰であろうと構わないのでございます。昨日の主が今日死んでも、我らは明日食べていければ、一滴の涙も流さず新しい主を迎える。それが民の本音でございます。名君とは、我らに『存在することさえ忘れさせてくれる者』のこと。明日も日が出て、明日も飯が食える。その当たり前を壊さぬ者であれば、鬼神であろうと凡夫であろうと、我らには仏に見えるのでございます」
その言葉は、氏真がこれまで学んできた「王道」や「仁愛」といった美辞麗句を根底から覆すものであった。しかし、同時に氏真の心には、これまでになかった強烈な納得感が突き刺さった。
(……これだ。これこそが、父上が目指す景色の正体か!)
氏真は膝を叩いて立ち上がった。その顔には、自らの資質に悩み、暗い闇を彷徨っていた時の陰りは微塵もなかった。
「長秀、聞いたか! 藤吉郎が今言ったこと……これは正に、古代中国の聖帝・堯が治めたという理想郷、『鼓腹撃壌』の故事そのものだ!」
「鼓腹撃壌、でごぜぇますか」
長秀が藤吉郎に説明する。
「左様。 堯が自分の政が本当に正しいのかある村に確かめに行くと、一人の老人が腹を叩き、地を打って歌っていた。『日が出て働き、日が沈んで休み、井戸を掘って飲み、田を耕して食う。天子が誰だろうがわしには関係ない』と。堯はそれを聞き己が政は正しかったと安堵したという故事だ」
氏真が興奮した面持ちで続ける。
「民に王の存在すら意識させぬほど、民が日々の暮らしを謳歌する。それこそが政治の極致。思い描く者はいても、誰もが実現できていない……!」
氏真の脳裏で、目の前の男が語る泥臭い本音が、一つの高貴な理想となった。
「藤吉郎、よくぞ申した! 其方のような正しきを悟らせる男が、私には必要なのだ!」
氏真は藤吉郎に歩み寄り、その泥に汚れた手を自らの端正な手で強く握りしめた。藤吉郎は驚き、その丸い目をさらに大きく見開いた。
「大きな目標ができたぞ。誰もが実現できていない理想の世の実現。非才ながら私がそのための器となってみせよう。藤吉郎!其方も力を貸してくれ」
「ははっ! 畏まりました! この猿、氏真様の御為、そして腹を叩いて笑う民草の為、尽力致す所存!」
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