第五十八話 氏真の苦悩
義元が美濃にて天下の静謐を掲げて上洛の準備を整えている頃。今川の本拠地・駿府を守る留守居役の嫡男・今川氏真の心に、底冷えのするような重圧がのしかかっていた。
駿府館。氏真は一人、父から託された地図を広げていたが、その手は微かに震えていた。そこへ、山積みの書類を携えた丹羽長秀が、静かに足音を忍ばせて現れた。
「長秀か……。今川家が大きくなればなるほど、自分がこの今川家という大河を堰き止めてしまう泥になってしまうのではないかと思えて来るのだ」
氏真は地図から目を離さぬまま、絞り出すような声で言った。長秀は足を止め、主君の横顔を静かに見つめる。
「父上は、戦えば負けを知らず、法を敷けば民が従う。今や元康や十兵衛、半兵衛といった、天下に知られた英傑たちが父上の背を追っている。……そして、かつて尾張にいた信長もそうだ。あやつは狂気にも似た才で、古い世を壊し、新たな理を築こうとした。それに引き換え、私はどうだ? 蹴鞠や歌には通じていても、軍略も政も、あの英傑たちには及ばぬ。このような『非才』が、猛虎・信玄と対峙するこの駿府を預かって良いものか」
氏真の言葉は、偉大すぎる父や宿敵を間近で見てきた二代目が陥る、深い自己嫌悪の淵から漏れたものであった。
長秀は一歩進み、氏真の隣に座した。
「氏真様。……私は織田信長という男に仕え、今は氏真様の側近として仕えております。その私が思うに、信長様は『破壊の人』にございました。自らが先頭に立ち、既存のすべてを焼き尽くして道を作る。一方、義元公は『構築の人』。法を以て、誰もが富める仕組みを自ら描き出される」
長秀は穏やかな、しかし確信に満ちた瞳で氏真を見つめた。
「ですが氏真様。一人の英雄が万事をこなす世は、その英雄が倒れた瞬間に終わります。氏真様がもし、軍略や政の細部で父君に及ばぬと仰るならば……無理に父君に近付こうとなさるな。かつて大陸を統一した、漢の高祖・劉邦となれば良いのです」
「劉邦……。あの、軍略では韓信に及ばず、内政では蕭何に及ばず、知略では張良に及ばぬと言われた男だな」
「左様。劉邦は自らが彼らに遠く及ばぬことを知っていた。だからこそ、天下の英傑たちを、適材適所に配して、その力を百倍にも千倍にも引き出したのです。主君とは、必ずしも万能の者である必要はございませぬ。万の才が集うための将の将たる『器』であれば良いのです」
長秀は、地図の北、甲斐の国境を指差した。
「我が方の想定敵は、武田信玄。もしもの場合、あやつは義元公が踏み出した隙を突き、この駿府を、あるいは美濃の背後を必ず狙って参りましょう。信玄という毒に対抗できるのは、義元公のような才気ではなく、氏真様が英傑たちの力を束ねて築く、堤防にございます。城を築く以上に、人の心と物流の流れでできた堤防を築くのです」
氏真は、長秀の言葉を反芻するように深く息を吐いた。自分が父の影を追うのではなく、父の創った「黄金の世」を支える多くの才を見出し使いこなす。それこそが非才である自分に課せられた、真の使命ではないか。
「……長秀。私は、父上のようにはなれぬ。だが、私という器を使って其方や、まだ見ぬ才ある者たちが存分に働ける世を、この駿府で守り抜きたい。そのような自分でありたいと思う。信玄がどれほど姑息な手を使い駿河や美濃を突こうとも、この黄金の法を枯らさせはせぬぞ」
氏真の瞳に、迷いを振り払った強い光が宿った。長秀は深く一礼し、満足げに微笑んだ。
「そのお覚悟、米五郎左、命を賭して支えさせていただきます。……さて、氏真様。その『器』を試す、最初の一人を御紹介いたしましょう。民というものが真に何を求め、名君をどう見ているか……その本音を語りうる男に心当たりがございます」
「ほう、その者の名は……?」
「はい。……名を、藤吉郎と申します。尾張より連れて参った私の『木綿』でございます」
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