第五十七話 信玄と信虎
京の二条御所にて、将軍・足利義輝より「今川義元上洛要請」の御内書を勝ち取った武田信虎は、休む間もなく東へと馬を飛ばしていた。その手には、将軍家特使としての公文書が握られている。目指すは、かつて自らが支配し、そして実の息子によって追放された故郷――甲斐・躑躅ヶ崎館である。
信虎にとって、この帰還は単なる郷愁ではない。婿・今川義元が京へ登る際、その背後を脅かす最大の懸念事項、すなわち「甲斐の猛虎」武田信玄(晴信)の牙を、力ずくで押さえ込むための戦いであった。
甲斐の国境を越え、武田家臣団の冷ややかな視線を浴びながら、信虎は悠然と躑躅ヶ崎館へと入った。 広間には、当主・武田信玄を中心に、山県昌景、馬場信春、高坂昌信といった、猛将たちが居並んでいる。かつて信虎を追放した際の立役者たちも多い。広間に流れる空気は、一触即発の緊張感に満ちていた。
「父上、京よりの御使い、大儀にございます。……して、将軍家はこの甲斐に何を望まれておられるのか」
信玄の声は、深く、地を這うような重みがあった。二十数年の歳月は、かつて父を裏切った若者を、深謀遠慮を極めた老獪な主君へと変えていた。
信虎は鼻で笑うと、将軍の御内書を信玄の前の畳へ放り出すように差し出した。
「晴信よ。今は徳栄軒信玄だったか?公方様が望まれているのは『天下の静謐』に他ならぬ。そして、その静謐を成し遂げるために、今川義元殿が上洛されることとなった」
信虎は一歩踏み出し、信玄の瞳を真正面から射抜いた。
「京に潜む貴様の『草』どもが、婿殿の動きを執拗に探り、何やら不穏な種を蒔いているのは百も承知だ。……晴信。今は婿殿の邪魔をするな」
広間にどよめきが走った。義元を「婿殿」と呼び、その王道を支持する父の言葉は、武田の将たちにとって侮辱に近い。しかし、信虎は止まらない。
「あやつが京を黄金で満たせば、足利も、そしてこの武田も安泰だ。義元は貴様らのような『奪うこと』しか知らぬ古臭い武者ではない。富を巡らせ、法を敷き、戦そのものを無用とする『黄金の世』を創ろうとしているのだ。その王者の歩みを、甲斐の餓狼が背後から噛み付いて止めるというなら、この信虎が断罪する!」
信虎の眼光には、かつて荒ぶる虎として甲斐を力でねじ伏せた当時の狂気が宿っていた。信玄は静かに目を閉じ、数秒の沈黙の後、深く頭を下げた。
「……父上のお言葉、肝に銘じます。義元殿の上洛は、天下の平穏のため。武田家は、背後を脅かすような真似は一切致しませぬ。むしろ、義元殿の上洛を信濃の地より祝しましょう」
その態度は非の打ち所がないほど従順であり、信虎もそれ以上の追及を止め、甲斐を後にした。
しかし、信虎の姿が城門の向こうに消え、信玄がゆっくりと目を開けたとき、そこにあったのは従順さではなく、獲物を狙う冷徹な捕食者の眼差しであった。
信玄は、傍らに控える「草」たちへ、声を潜めて命を下した。
「……父上は、義元殿の黄金に目が眩んだか。だが、法と富だけで天下が治まるほど、この乱世は甘くない」
信玄は、父が「心から納得しないだろうこと」を分かっていながら、あえて自分を抑えに来たことを看破していた。そして、自分もまた「心ならずも従うフリ」をすることで、義元の警戒を緩めさせるのが最善だと判断したのである。
「今川の背後を直接突く必要はない。近江の六角、浅井、そして京の三好……彼らとの連絡を密にするのだ。義元殿が上洛に全力を割く今こそ、我らは信濃を完全に平らげ、東から今川の喉元を喰いちぎる準備を整えるのだ」
信玄の狙いは、今川を正面から叩くことではなく、今川を上洛の泥沼に引き摺り込み、疲弊させることにあった。今川が京で華やかな儀式に耽っている間に、武田は山奥で牙を研ぎ、供給路を断つ準備を進める。
「義元殿、存分に上洛の夢を見られよ。」
数日後、美濃・稲葉山城。 信虎からの「信玄を抑えた」という戦果報告が、義元の元に届いた。 義元は書状を一読し、それを光秀に見せたが、その表情は晴れない。
「十兵衛。信虎殿はこう認めているが……信玄という男が、これほど容易く、余の王道に頭を下げるとは思えぬな。あやつは今、這いつくばって地面を舐めながら、余が踏み出す瞬間を待っている」
光秀が、地図を指しながら静かに答える。
「左様。武田信玄という男、従うフリをして毒を盛る術に長けております。背後に置くには、あまりに鋭い牙にございますな。三国同盟の手前、表立っては動きますまいが、上洛軍の補給路には武田の息がかかった国人衆が動くやもしれませぬ」
義元は立ち上がり、西の空を見つめた。
「背後に猛獣を飼ったまま、前方の壁を突き崩すか。十兵衛よ。信玄が『泥』を以て余の足を引っ張るというなら、余はその泥さえも黄金に変えねばなるまい」
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