第五十四話 半兵衛の忠義
光秀が城外から「静寂の理」を突きつける中、包囲陣の片隅で、二人の男が静かに視線を交わしていた。二人、半兵衛と勝家は今や言葉を交わさずとも互いの腹の内を読み合える仲となっていた。
半兵衛は、勝家の隣で城の背後に広がる深い断崖を見つめて言った。
「勝家殿……。最後の仕上げを行って参ります」
その言葉に、勝家は驚きもせず、野太い声で笑った。
「おう、行くのか。どうせお前の事だ、十六人で占拠した時に、城内に通じる『抜け道』でも作っておいたのだろう?」
半兵衛は、少し照れくさそうに微笑んだ。
「……勝家殿には隠し事はできませぬな。左様、岩肌の影、人の通れぬ獣道に一筋の道を。あの日、私は主君・龍興様の行いを正すために城を奪いましたが、同時に、あの方がいつか国を失った時、命だけは助かるようにと、その道を整えたのです」
「お前という男は、どこまでお節介なんだ」
勝家は呆れたように首を振ったが、その瞳には半兵衛への深い信頼が宿っていた。
勝家は、半兵衛の細い肩に大きな掌を置いた。その手には、かつて信長を救えなかった悔恨と、この男には同じ思いをさせないという信念が宿っていた。
「行ってこい、半兵衛。城を落とすのは十兵衛に任せればいい。お前も天才軍師と呼ばれた男だ。お前は……あの龍興の『魂』を救ってみせろ」
勝家は、自身がお市に救われたように、龍興にもまだ「やり直せる余地」があることを信じていた。そして、それができるのは、主君に小便をかけられてなお、この美濃という国を愛し続けている半兵衛しかいないことも。勝家は言葉を継いだ。
「儂も、信長様やお市様に救われてここにいる。一度国を失ったからといって、人の道まで終わるわけではない。不破のような義に厚い男が命を懸けている主君だ。龍興にも、まだ人としての意地が残っているはずだ。それを引きずり出してやれ」
「勝家殿……。畏まりました。この竹中半兵衛、柴田勝家の臣として、龍興様に最後の手向けをして参ります」
半兵衛は深く一礼すると、闇に溶けるように茂みの中へと姿を消した。
以前「主君の行いを正すため」に登った道を、今は「かつての主君を正しい道に戻すため」に登る。
城内では、光秀の強いる「沈黙の包囲」に耐えかねた兵たちが逃げ出し、龍興は奥御殿で震えていた。
「……誰だ。光治か? 道利か?」
暗がりの向こうから、聞き慣れた、しかし今は何よりも恐ろしい声が響いてきた。
「……竹中半兵衛にございます。龍興様、今一度、貴方様と語りに参りました」
龍興の前に姿を現した半兵衛は、武器を持たず、ただ一輪の花を供えるように静かな佇まいであった。
城の外では勝家が祈るように空を見上げ、光秀が冷徹に時を数える中、城内では美濃の過去と未来を繋ぐ、最後の対話が始まろうとしていた。
半兵衛は、絶望した主君の魂を救い上げることができるのか。勝家の「直情」を背負った軍師の、最大の調略が幕を開ける。
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