第四十八話 鬼神と鬼謀 四
竹中半兵衛は、手にした酒杯をそっと置き、居住まいを正した。その瞳からは先ほどまでの虚無が消え、一点の曇りもない決然とした光が宿っていた。
「勝家殿、光秀殿。今川家に私の知略を捧げる覚悟ができました。……ただし、仕官にあたり、三つの『条件』をお認めいただきたい」
半兵衛の声は、栗原山の静寂を切り裂くように凛と響いた。
「一つ。私は義元公の直臣ではなく、柴田勝家殿の与力(家臣)として仕えたい」
「……はあぁぁあッ!?」 本日二度目の、勝家の絶叫が山々にこだました。光秀すらも驚きに目を見開く。
「半兵衛、貴様、何を血迷っている! 義元公は天下を狙う御方だぞ! その直臣になれば、一国一城の主も夢ではない。なのに、なぜ儂のような男の家臣になりたいなどと言う!」
半兵衛は、驚き慌てる勝家を慈しむように見つめ、静かに微笑んだ。
「知略とは、研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、冷徹な刃となります。私一人では、またいつか己の策に溺れ、国を、人を傷つけるでしょう。……ですが、勝家殿。貴殿のような『真っ直ぐな熱』を主に持てば、私の刃は正しく振るわれると確信したのです。貴殿という鞘があれば、私は再び軍師として生きられる」
半兵衛は表情を引き締め、残る二つを告げた。
「二つ。私は今後、美濃を生かす策は立てても、殺すための策は一切立てませぬ。」
「三つ。美濃を攻める際、龍興様の命を奪うことは断じて許しませぬ。」
光秀は、その言葉の重みに沈黙した。それは、かつて自分に小便をかけ、屈辱を与えた主君への、半兵衛なりの最後の忠義であり、訣別の儀式であった。
「……あのお方は、主の器ではありませんでした。ですが、私の主であったことに変わりはない。あのお方を『殺す』ことで美濃を平らげるのは、義元公の掲げる『黄金の法』にも悖るはず。……知略で一色を滅ぼすのではなく、美濃を救う道を探す。それが、私の譲れぬ一線にございます」
勝家は、半兵衛の突きつけた条件をじっと反芻していた。 光秀は不安げに勝家を見つめる。勝家にとって、「龍興を殺さない」という制約は、軍事的な足枷になりかねないからである。
しかし、勝家は大きく鼻を鳴らし、豪快に笑い飛ばした。
「――がははは! いいだろう、半兵衛! 貴様、面倒な男だと思ったが、これほどまでに『面倒くさい忠義』を抱えていたとはな!」
勝家は半兵衛の細い肩を、壊さんばかりの力で叩いた。
「気に入ったぞ! 龍興を殺さずに美濃を飲み込む? 面白いではないか。それができないようなら、今川の法も、この柴田勝家の腕っぷしも、たかが知れているということだ。……義元公への報告は儂が引き受けた! 貴様は今日から、儂の『知恵袋』として、こき使ってやるから覚悟しておけ!」
光秀は、二人の姿を見て深く安堵した。義元は言った。 「その表裏のなさがよい」―。 義元は、勝家という「鞘」が、半兵衛という「名刀」を最も輝かせることを予見していたのかもしれない。
「……勝家殿、半兵衛殿。これにて、新たな道が開かれましたな」
三人は、残った酒を飲み干した。栗原山の霧が晴れ、遠く墨俣に建つ黄金の砦が、夕日に照らされてひときわ輝きを増していた。
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