第四十七話 鬼神と鬼謀 三
上手いことを言ったつもりの勝家だったが栗原山の清流のせせらぎが、かえって静寂を際立たせていた。 半兵衛は、勝家が飲み干した酒杯をじっと見つめ、その細い指先で杯の縁をなぞった。
「……勝家殿。貴殿は私に『知略で黄金の法を温めてみせろ』と仰いましたが、私は己を、戦に勝って国を傾けた愚か者だと思っております」
半兵衛の声は、湿り気を帯びて沈んでいた。
「あの十六人占拠……私は、龍興様の稚気を、未熟を、あのお方の歪んだ心を正したかった。城を奪えば、主君は己の器を恥じ、心を入れ替えてくださると信じていた。……ですが、結果はどうです?」
半兵衛は自嘲気味に口角を上げ、空を仰いだ。
「城を返せば、主君は恐怖に震え、猜疑心の塊となり、私や三人衆をさらに遠ざけた。美濃の結束はバラバラになり、民は怯え、国力は衰えた。義龍様に託されたというのに……私の知略は、主君を救うどころか、美濃という国に引導を渡しただけに過ぎませぬ。人の心すら読めぬ者が、軍師を名乗るなど……笑止千万にございます」
その瞳には、かつて稲葉山を紅蓮に染めた峻烈な光はなく、ただ深い虚無が漂っていた。
その沈黙を破ったのは、勝家が卓を叩く凄まじい音だった。
「――情けないことを抜かすな、このひょろ長軍師がッ!!」
光秀が驚いて止める間もなく、勝家は半兵衛の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで身を乗り出した。
「国を傾けただと? 知略が届かなかっただと? 当たり前だ、そんなもん! 人の心なんてな、計算通りに動くわけないだろうが!」
栗原山の静寂を切り裂くような、柴田勝家の咆哮。それは、知略に絶望し、静かに死を待つようだった竹中半兵衛の魂に、力強い「生」の脈動を叩き込んだ。
勝家は、自身が今川に降った理由を、そして自身の背負うあまりに重い「過去」を語り始めた。
「半兵衛。貴様は『知略が届かず国を傾けた』と泣き言を抜かすが、儂を見ろ。儂は、主君を死なせた男だ」
勝家の声は、怒りから深い自省へと沈んだ。
「あの桶狭間……。今川義元公が織田の『理』を塗り潰し、黄金の法を突きつけたあの日、儂は信長様の傍にいられなかった。信長様から『織田の魂を守れ』と、あえて戦場から遠ざけられたのだ。……主が散り、尾張が呑まれていくのを、儂はただ指をくわえて見ているしかなかった」
勝家は、自身の大きな拳を震わせながら見つめた。
「丹羽長秀も同じよ。あいつも、儂も、信長様という苛烈な光に魅せられ、その光を守れなかった『敗者』だ。……だがな、半兵衛。儂らはそこで終わることを許されなかった」
勝家は懐から、守り刀の目貫を取り出した。それは、かつて信長が使用していた品だった。
「信長様は儂らに『遺児』を託された。……わかるか? 義元公は、織田を滅ぼしたのではない。信長様という男が描こうとした『新しい世』の種を、ご自身の法の中で育てようとしておられるのだ」
勝家は立ち上がり、半兵衛の前にどっしりと座り直した。
「儂と長秀が今、泥を啜ってでも今川に仕えているのはな、それが信長様への最後の忠義だからだ。信長様が愛した尾張の民を、そしてあのお方の血を引く子供たちを、義元公の創る『黄金の世』で幸せに暮らさせること。お市様を笑って過ごさせること……。それが、儂らが選んだ『死に場所』よ」
半兵衛は、勝家の言葉を一言も漏らさぬように聞き入っていた。
「……信長様の、遺児を」
「そうだ。……貴様は義龍殿への忠義が深すぎたから、龍興というガキが許せなかったんだろう。自分の知略が完璧だと思っていたから、その失敗が許せなかったんだろう。……だがな、そんなもん、儂から見れば『贅沢な悩み』だ」
勝家は、半兵衛の肩に置いた手に力を込めた。
「儂は、信長様が死んだ時、絶望する暇さえなかった。しかし貴様は違う……半兵衛、貴様の『美濃への愛』はまだ死んではいない。龍興を懲らしめる力があるなら、その力を、義元公が創る黄金の法の中で、美濃の民を救うために使ってみせろ。それが、義龍殿への一番の供養になるのではないのか?」
勝家の瞳には、お市への愛、信長への悔恨、そして義元への絶対的な信頼が混ざり合い、言葉を超えた「熱」となって溢れていた。
「……勝家殿。貴殿の『忠義』は、あまりに重く、そしてあまりに温かい」
半兵衛は、ゆっくりと、しかし確かな力強さで立ち上がった。 彼の瞳からは、もはや迷いは消えていた。かつて「一色龍興」という個人に向けられていた閉ざされた忠義は、勝家という男の生き様を経て、「民と世を救う」という大きな『法』への志へと昇華されたのだ。
勝家が桶狭間の戦いに参戦してないのは史実です。長秀は従軍しているものの義元本陣攻撃隊には加わっていません。これも史実。
ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。
励みになりますので☆による評価及びリアクションによる応援をお願いします。




