第四十四話 傾国
稲葉山城をわずか十六人で占拠してから一月。竹中半兵衛は約束通り、城を主君・一色龍興へと返還した。
「龍興様、どんなに要害堅固であろうと、家臣の心が離れているこの城が如何に脆いか。これでお分かりいただけましたでしょうか。今一度、一色家の矜持を取り戻し、国を立て直していただきたい」
半兵衛は、城門の前で深く頭を下げた。しかし、輿から降り立った龍興の瞳に宿っていたのは、反省でも後悔でもなく、ただ「恥をかかされた」という矮小な怨嗟と、自分を追い出した者たちへの生理的な恐怖だけであった。
城に戻った龍興は、すぐに斎藤飛騨の縁者を呼び寄せ、半兵衛や三人衆への報復を画策し始めた。
「奴は俺を侮辱したのだ! 殺せ、竹中の一族を根絶やしにせよ!」
酒を煽り、狂ったように叫ぶ龍興の姿は、すぐに城下の隅々まで伝わった。
「あの難攻不落の城が、たった十六人で落ちたのだ。もはや一色家の命運は尽きた」 「半兵衛様が命懸けで諫めたというのに、殿は酒と恨みに溺れるばかりか」
美濃の国人衆や民の心は、音を立てて崩れ去った。彼らの視線は、もはや山頂の稲葉山城ではなく、川向こうで太陽のように燦然と輝く、今川義元の「墨俣黄金砦」へと向けられていった。あそこに行けば、法があり、富があり、何より「明日を語れる主」がいる。
半兵衛は、己の邸宅で届く報に耳を塞いだ。 主君に反省を促し、国を一つにまとめるために打った「十六人占拠」という劇薬。しかし、その薬が強すぎたのか、それとも患者の器が小さすぎたのか。結果として招いたのは、国力のさらなる弱体化と、今川への人心流出の加速であった。
「……私の知略は、主君を救うどころか、美濃という国を傾けてしまった」
半兵衛は、己の両手を見つめた。人を救うために磨いたはずの知恵が、今は血の臭いよりも冷たく、重く感じられた。
「知略とは、なんと傲慢なものか。人の心すら変えられぬ者が、天下の理を説くなど……」
半兵衛は、愛刀と数冊の本だけを抱え、誰にも告げずに城下を去った。目指すは栗原山の深い霧の奥。己の「知略」が自国を傾けたという恥辱を、永遠の静寂の中に葬るための旅立ちであった。
墨俣の砦から、稲葉山城を囲む「人心の波」が引いていく様子を、義元は見逃さなかった。
「十兵衛。半兵衛は消えたか」
「はっ。栗原山へ隠遁したとの報にございます。自らを、深く恥じておられる様子」
義元は黄金の扇子で、夕日に染まる美濃の山々を指した。
「……あ奴は己を『国を傾けた疫病神』だと思っているだろうが、余から見れば、あ奴こそが美濃の『膿』をすべて引き受けて去った恩人よ。十兵衛……今こそ、あの男の魂を救いに行く時だ」
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