第四十二話 知らぬ顔の半兵衛
義元が放った「称賛」という毒が龍興の心を侵食する中、その猜疑心に決定的な火をつけたのは、龍興の寵臣であり、狡猾な野心家である斎藤飛騨であった。
彼は半兵衛のあまりに鮮やかな軍才を妬み、その忠誠心を「試す」という名目で、人道を外れた屈辱的な策を龍興に具申する。
稲葉山城の奥深く、酒臭い空気が漂う龍興の寝所。斎藤飛騨は、今川の離間の計にかかった年若い主君の耳元で、毒蛇のように囁いた。
「龍興様、半兵衛や三人衆の不遜な振る舞い、もはや目に余ります。今川と内通しているかは定かではございませぬが、奴らが自分たちこそが美濃の主であると自惚れているのは間違いございませぬ」
龍興は、震える手で杯を煽った。
「……ならば、どうすればよい。奴らを斬るか?」
「いえいえ、まずは奴らの『鼻柱』を折るのです。人は、極限の屈辱に晒された時こそ、本性が現れるもの。……半兵衛が登城した際、余興と称して、その頭から小便を浴びせてやるのです。もし、奴が笑って耐えるなら真の忠臣。もし怒るなら、それは心に謀反の芽がある証拠にございます」
それは十四歳の主君、残酷な子供の好奇心に火を灯した。
「……面白い。やってみよう」
翌日、半兵衛が政務のために登城すると、櫓の上で斎藤飛騨、龍興の二人が、不敵な笑みを浮かべて待ち構えていた。
「おお、半兵衛殿。今日も美しき知略を練っておられるかな?」
飛騨の合図と共に、頭上から温かく、鼻を突く汚液が降り注いだ。 半兵衛の白い装束、そして冷静な顔立ちに、龍興の放った小便が浴びせられたのだ。
辺りは水を打ったように静まり返った。 供回りの若武者たちが刀の柄に手をかけ、怒りに顔を真っ赤にする。しかし、半兵衛はただ静かに立ち止まり、目を閉じていた。
頭から滴る汚辱。 それを見下ろし、龍興は幼い優越感に浸って嘲笑った。
「ははは! 見ろ、半兵衛! これこそが我が一色家の『洗礼』よ。そなたが真に俺の家臣なら、その雫すらも甘露と思うて受け取れ!」
半兵衛は、一度だけ深く息を吐いた。 怒りの叫びも、弁明もない。彼はただ、濡れた顔を拭うこともせず、ゆっくりと龍興を仰ぎ見た。
その瞳に宿っていたのは、激昂ではなく、底知れぬ「虚無」であった。
(……義龍様。私が命を賭して守り抜いたこの『理』は、この童の稚気一つで、小便よりも汚いものに変わってしまいました)
この光景は、隠密を通じて即座に墨俣の明智光秀、そして今川義元のもとへ届けられた。
「……飛騨め、愚かなことを。だが、これで決まったな」
光秀は、報告書を握りつぶした。
「義元公。半兵衛の心は、今、稲葉山から離れました。もはや龍興に、奴を繋ぎ止める糸は一本も残っておりませぬ」
義元は、黄金の扇子でトントンと机を叩いた。
「……離間を仕掛けたのは我々とは言え、主君に恵まれなんだ半兵衛も哀れよな。いずれ余の下で存分にその才を発揮させてやろう」
自邸に戻った半兵衛は、装束を着替えることもせず、ただ闇の中に座っていた。 そこへ、知らせを聞いた稲葉一鉄ら三人衆が、血相を変えて駆け込んできた。
「半兵衛! 龍興の愚行、聞き及んだ! もはや我慢ならん、今すぐ奴を引き摺り下ろしてやる!」
「……いえ、一鉄殿。荒立ててはなりませぬ」
半兵衛が口を開いた。その声は、かつてないほどに低く、透き通っていた。
「主君が病んでいるのなら、私がその毒を抜いて差し上げねばなりませぬ。刀ではなく、もっと『軍師らしいやり方』で」
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