第四十一話 崩れゆくもの
桶狭間とは逆に今川の救いとなった豪雨によって、今川の息の根を止め損ねた稲葉山城。表向きは「今川を撃退した」という祝杯の酒に沸いていたが、その水面下では、今川義元と明智光秀による、さらに冷徹な「毒」が運び込まれていた。
それは、何よりも確実に、美濃の屋台骨を腐らせる毒であった。
今川義元は、敗走した直後、あえて稲葉山城へ向けて丁重な使者を送った。届けられたのは、一通の書状。そこには、目を疑うような称賛の言葉が並んでいた。
「美濃に竹中半兵衛、そして三人衆あり。その智勇、今川の法をすら凌駕せり。此度の戦、余の完敗なり。龍興殿、これほどの臣下を持つ幸い、天下に並ぶものなし」
この書状が、すべての発端であった。
「ははは! 見たか、あの義元がこの俺に兜を脱いだぞ!」
若干十四歳の主君・一色龍興は、宴の席で上機嫌に叫んだ。当初、彼は知略を尽くして戦った半兵衛や三人衆を、無二の忠臣として褒めちぎった。
「半兵衛、そなたの火計は見事であった。一鉄、守就、卜全、そなたたちの働き、俺は忘れぬぞ。喪中とはいえ、父上も今宵は許してくれよう。飲め、今川の黄金など、我が美濃の智略の前ではただの泥よ!」
しかし、半兵衛は酒杯に手をつけず、冷めた瞳で主君を見つめていた。
(義元公、恐ろしき御方だ。勝利を称えることで、主君の『器』という鏡を曇らせに来たか……)
数日が過ぎると、今川の放った草たちが、城下の茶屋や酒場で、ある噂を囁き始めた。
「知っているか? 義元が最も恐れているのは龍興様ではなく、半兵衛様と三人衆なのだと」
「稲葉山は今や、一色家のものではなく、竹中と三人衆の城だ。龍興様はただの飾りよ」
これらの声は、義元の息のかかった近習たちを通じ、巧妙に龍興の耳へと届けられた。さらに、光秀は半兵衛、三人衆のそれぞれに、義元直筆の「書状」をあえて龍興の目が届くような不自然な形で送り込む。
「……半兵衛。今川から、また文が届いたそうだな」
ある日の政務の場。龍興の声から、以前の快活さが消え、じっとりとした湿り気が帯び始めた。
「はっ。なれど、一瞥もせず焼き捨てました。義元の離間の計にございます。どうかご安心を」
半兵衛は淡々と答えたが、龍興の眼には、その沈着さが「不遜」に映り始めた。
「焼き捨てた? 俺に見せもせずか。……一鉄たちもそうだ。俺の許しもなく今川の使者と会うたというではないか。そなたら、俺を差し置いて、勝手に義元と和議でも結ぶつもりか?」
「龍興様、それは邪推というもの!」
稲葉一鉄が声を荒らげるが、それがさらに龍興の猜疑心を煽る。
「黙れ! 義元は認めておった。『龍興に臣下を持つ幸せあり』とな。それは、俺が臣下に生かされているだけの傀儡だと言いたいのではないのか!」
龍興の瞳に宿ったのは、名門・一色家としての誇りと、十四歳の少年ゆえの埋めがたい劣等感であった。義元は、その心の隙間に「称賛」という名の毒を流し込んだのだ。
半兵衛は、崩れゆく主従の絆を前に、静かに拳を握りしめた。
(戦で守った城が、内側から崩れていく。……義元公、貴殿の『理』は、これほどまでに残酷か)
ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。
励みになりますので☆による評価及びリアクションによる応援をお願いします。




