第四十話 紅蓮迷路 三
「……義龍様、見ておいでなされ。貴方が守ろうとしたこの稲葉山が、いや美濃が、今川の軍勢を焼き尽くそうとしております」
半兵衛の瞳には、冷徹な勝利の確信と、主君を失った深い悲哀が同居していた。
今川の精鋭たちが、死の淵で天を仰いだその時である。
不気味に赤く染まっていた空が、突如として墨を流したような黒雲に覆われた。
一閃の落雷。そして、天地を震わせるような激しい豪雨が、焦熱の稲葉山へと叩きつけられたのである。
「雨……だと? 観天望気にそんな気は無かったというに……。この完璧な瞬間に、雨だと申すか!」
半兵衛の叫びが、雨音にかき消される。
猛烈な雨は、隘路を満たしていた油の炎を鎮め、代わりに周囲を深い蒸気で満たした。炎による封鎖が解け、氏家卜全が塞いだ退路の土砂の隙間から、泥流と共に元康たちが這い出し始めた。
「……天は、今川の『法』を捨てぬか。それとも、まだ義龍様の執念が足りぬというのか」
半兵衛は、降りしきる雨に打たれながら、呆然と立ち尽くした。勝利を目前にしながら、天候という理外の力に阻まれた軍師の目には、涙とも雨ともつかぬ雫が伝っていた。
突如として降り注いだ豪雨。炎が消え、蒸気が立ち込める中、光秀は即座に決断した。
「勝家殿、今です! 天が味方したこの隙を逃さず、泥濘に沈む元康殿たちを引き揚げさせねばなりませぬ。攻撃は無用、ただ『回収』のみに専念を!」
光秀と勝家は、予備兵力を率いて泥土の中に突入した。しかし、彼らが目にしたのは、半兵衛が追撃を仕掛けてこない異様な静寂であった。
山頂を見上げれば、雨に打たれながら立ち尽くす半兵衛と三人衆の影。彼らは、逃げゆく今川軍を「狩る」ことすら、もはや無意味であると悟っているかのようであった。
泥まみれの元康たちを収容し、光秀たちは黄金砦へと戻った。
義元は、後方で冷静に戦況を見守っていた光秀に対し、静かに問いかけた。
「十兵衛。後方から見たあの炎……どう映った?」
光秀は深く頭を垂れた。
「……あれは、義龍の執念にございます。そして、その執念を何倍もの毒に変えたのは、半兵衛という軍師の『情』。」
紅蓮の地獄を生き延びた元康たち。後方でその策の全貌を見届けた光秀と勝家。彼らは、力押しでは決して陥落しない美濃の「芯」を目の当たりにした。
今川義元は悟った。この美濃は、力や法でねじ伏せるにはあまりに「情」の毒が深い。
「半兵衛がいる限り、力押しではあの城は落とせぬであろうな。なれど手はある」
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