第三十九話 紅蓮迷路 二
「退路が消えた! だが、敵兵はどこだ! 姿を見せろ!」
元信が咆哮する。しかし、そこには一人の伏兵も現れない。
代わりに現れたのは、頭上の岩棚から滝のように流れ落ちる、黒い「水」であった。
「油だ! 避けろッ!」
安藤守就隊が岩棚の上から樋で流し込んだ油が、密集した今川勢の頭上から、逃げ場のない足元までを真っ黒に染め上げた。
そして、稲葉一鉄が放った一本の火矢が着弾する。
「これこそが、兵を一人も損なわず、敵を屠る火炎の十面埋伏。……燃えなされ、黄金の法と共に」
火は一瞬で連鎖し、隘路は巨大な「火鉢」へと変貌した。
慎重に「伏兵に囲まれない場所」を選んだが故に、そこは一切の風が通らず、熱気が螺旋を描いて兵たちを焼き焦がす地獄となった。
前へ進もうとすれば、 熱風が肺を焼き、意識を奪う。
岩壁を登ろうとすれば、 油を吸った石肌が滑り、炎の中へと滑り落ちる。
そこに留まれば、 慎重に構えた「持楯」が真っ赤に熱せられ、肉を焼く鉄板と化す。
「熱い! どこへ逃げても火だ! 兵がいないのに、なぜ囲まれているんだ!」
元信の悲鳴が響く。そう、半兵衛は兵を伏せる代わりに、「地形」と「火」と「油」を十方に配置し、今川軍を閉じ込めたのである。
「熱い! 水だ、水を!」
「元康殿、こちらへ! 早く岩陰へ!」
岡部元信が燃え盛る木材を素手で掴み、捨て身で元康を庇う。蜻蛉切を杖に、煤まみれで咆哮する本多忠勝。
半兵衛は、炎の中に浮かぶ今川の将たちの「絶望」を、冷徹に見つめていた。
「……さらば元康殿、元信殿。貴殿らの命をもって、義龍様への餞といたそう」
時を同じくして、稲葉山の中腹から数町離れた後方の高台。明智光秀と柴田勝家は、義元の命により「元康らが罠を暴くか、活路を開くまでは動くな」と厳命されていた。
「……十兵衛、見ておれん。元康たちが隘路に吸い込まれていくぞ!」
勝家が苛立ち、愛槍を地面に突き立てた。彼にとって、目の前で三河衆が「袋の鼠」になろうとしている光景は耐え難い屈辱であった。
しかし、光秀は動じなかった。いや、動けなかった。
その時、山肌を突き破るように紅蓮の炎が噴き上がったのだ。
距離を置いているからこそ、光秀にはその異様さがはっきりと分かった。炎は無秩序に燃えているのではない。半兵衛の指示に合わせ、今川軍を翻弄し、一箇所に凝縮させる「意思」を持っているかのようにうねっていたのだ。
この地獄を望んだ光秀は、絶望に身を震わせた。
「元康殿らの慎重さまでも……あ奴は『死地に誘い込む手段』として利用したのか!」
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