第三十八話 紅蓮迷路 一
深夜の墨俣黄金砦での激論を経て、今川義元は慎重な「二段構え」の陣を敷いた。しかし、その慎重さすらも、竹中半兵衛という男の計算の内であった。
美濃の深い霧が朝焼けに染まる頃、今川軍の進軍が始まった。
稲葉山城の本丸。義龍の亡骸が安置された奥御殿の床几に、竹中半兵衛は独り腰を下ろしていた。
「……義元公。貴殿は『理』の人だ。故に、こちらが『理』にかなわぬ無能を演じれば、必ず疑い、そしてその疑いを確認するために、最も信頼する者を差し向けてくる」
半兵衛は、麓に広がる今川の軍勢を眺め、自嘲気味に口角を上げた。
「松平元康殿、岡部元信殿……今川の誇る『慎重なる将』。貴殿らが用心深く、一歩一歩石橋を叩いて進むその足音こそが、私にとっては最も心地よい旋律。」
一方、今川勢。
霧に濡れる稲葉山。松平元康と岡部元信の歩みは、もはや亀の歩みよりも遅かった。一歩進むごとに兵に茂みを突かせ、岩陰を確認させ、少しでも不審な気配があれば鉄砲を撃ち込んで「誘い出し」を試みる。
「……元康殿、おかしい。ここまでは十面埋伏に絶好の地形だが、兵の影が一切ない」
元信が不審げに首を傾げた。彼らは、「伏兵の潜みそうな場所」をすべて完璧に潰しながら進んできたのだ。
「罠や伏兵がないことを確認しながら進んでいる。だが、何故だ……この『正解』を歩いている感覚が、これほどまでに恐ろしいのは」
元康の直感は、警鐘を鳴らし続けていた。しかし、彼らが慎重に選び抜き、安全を確認し続けた道は、必然的にある場所へと収束していった。
山頂の物見櫓。竹中半兵衛は、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の三人衆と共に、今川軍が「自ら選んで」隘路の底に溜まっていく様を見つめていた。
「半兵衛、奴ら、見事なまでに誘導されたな。慎重さが仇になるとは、このことか。罠を仕掛ける時間まで与えてくれるとはな」
一鉄が獰猛な笑みを浮かべる。半兵衛は、扇子で口元を覆いながら静かに答えた。
「敵は十面埋伏とは兵を数多に伏せて囲むものだと考えている。……ですが、兵法の本質はそこにはございませぬ。十面埋伏は、伏兵によって成すのみでは無い。 壁が、風が、そして何より敵自身の『慎重さ』が、彼らを囲む壁となるのです」
元康たちが「伏兵なし」と確信し、全軍がその隘路に収容された瞬間、半兵衛が右手を下ろした。
氏家卜全隊が仕掛けた爆薬が山を揺らした。退路を固めていた元康隊の後衛ごと、土砂が道を埋め尽くしていた。
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