第三十七話 虚か実か
竹中半兵衛が放った「毒」は、矢弾よりも深く今川軍の心臓部を射抜いた。墨俣の黄金砦、その豪奢な広間で行われた緊急の評定は、かつてない混乱と熱気に包まれていた。
「報告! 稲葉山城内にて火の手が上がっております! 龍興は、伊勢へ脱出した模様!」
「待て、こちらの知らせでは、稲葉一鉄ら三人衆が龍興を幽閉し、我が方に降伏の使者を出したとあるぞ!」
「否! 義龍殿は未だ生きており、病床から総攻撃の号令を下したとの声も!」
次々と飛び込む、正反対の報せ。光秀の眉間には深い皺が刻まれ、勝家は苛立ちを隠せずに床几を叩いた。これこそが半兵衛の狙い、情報の「過多」による判断の麻痺であった。
「十兵衛、何を躊躇っておる!」
柴田勝家が立ち上がり、怒号を上げた。
「義龍が死のうが生きていようが、城内が乱れている今こそ攻めの好機。儂が先陣を切り、稲葉山の門を叩き割ってくれる!」
対して、明智光秀は静かに、しかし冷徹な声で遮る。
「勝家殿、落ち着かれよ。これほど都合の良い話が重なるのは、策士の筆が強いとみる。半兵衛は我らを焦らせ、あの険峻な山城へ引きずり込もうとしている。今動けば、それこそ奴の思う壺にございます」
「策、策とうるさいわ! 戦は理屈では決まらんのだ!」
傍らで控えていた松平元康は、混乱する場を鎮めるように口を開いた。
「……平八郎、其方はどう見る」
問われた本多忠勝は、蜻蛉切の柄を握りしめたまま、稲葉山を見つめて答えた。
「敵の殺気が、山全体から溢れております。あれは逃げる者の気配ではございませぬ。牙を剥き、獲物を待つ獣の気配にございます」
元康は深く頷き、義元に視線を送った。紛糾する諸将を前に、これまで沈黙を保っていた今川義元が、ゆっくりと黄金の扇子を開いた。
「確かに龍興は齢十四。凡庸な主であれば、父の死に動転し、国を捨てるのも無理なきこと。……だが、竹中半兵衛という男、その『凡庸さ』すらも盾として使い、我らの目を曇らせる男であったな」
義元は窓の外、闇に沈む稲葉山を見つめた。
「もしこの報が、今川を無理な強攻へと誘い出すための『甘い毒』だとしたら……。ここで全軍を突入させるのは、今川の法を泥に捨てるに等しい」
一座が静まり返る。
「元康と元信、この二隊によって先発とする。二隊には慎重に、しかし確実に城の懐深く潜り込み、半兵衛が何を策しているのか、その正体を暴かせよう。勝家と十兵衛、其方らはその後方で待機せよ。罠が発動した瞬間に、二人を救い出す、あるいは罠ごと敵を粉砕するための二段構えを敷く」
義元は、光秀の「慎重論」を汲み取りつつも、完全に足を止めることはしなかった。それは、敵の思惑を見極めないまま停滞することを良しとしない、合理主義者ゆえの判断であった。
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