第三十六話 弔いの策
稲葉山城の奥御殿。そこには、美濃の主であった一色義龍の巨躯が横たわっていた。
主を失ったばかりの部屋には、未だに濃密な死の気配と、義龍が放っていた独特の威圧感が澱のように沈んでいる。
「義龍様は……最後まで、道三様に似ぬ己を呪うておられましたな」
竹中半兵衛が、主君の亡骸に白布をかけながら静かに呟いた。
その背後には、西美濃三人衆――稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全が顔を揃えていた。彼らの表情には、主君を失った悲しみよりも、それ以上に差し迫った「存亡」の危機に対する焦燥が刻まれている。
「半兵衛、感傷に浸っている暇はないぞ」
稲葉一鉄が一歩前に出た。
「今川の物見は鋭い。墨俣にはあの黄金の砦がそびえ、明智十兵衛の目は、今この瞬間も我らの動揺を見透かそうとしている。義龍様落命の報が今川に漏れれば、奴らは雪崩を打ってこの山を、美濃の国を飲み込みに来るだろう」
安藤守就が苦々しげに付け加える。
「龍興様は、まだその器ではない。兵たちも、義龍様という支柱を失えば、今川の黄金の誘惑に抗いきれまい。座して待てば、我らは戦わずして下される」
半兵衛は、義龍の冷たくなった手を一瞬だけ強く握り、そしてゆっくりと立ち上がった。その瞳には、かつてないほどの冴え渡る光が宿っていた。
「左様……今川は必ず攻めてきます。ならば、こちらから『お招き』いたしましょう」
「何を言うか。この数で、今川の本隊と勝負をするというのか」
氏家卜全が驚きに目を見開いたが、半兵衛は首を振った。
「いいえ。今川がここぞとばかりに攻めてくるのは必然……ならば、その『強気』こそが奴らの首を絞める縄となる。義元は合理の人。そして光秀は理屈の人。彼らは、義龍様という支柱が消えた後の美濃が、内側から崩れることを確信している。……その『確信』を、餌にするのです」
半兵衛は地図を広げ、指先で稲葉山城の峻険な谷をなぞった。
「まず、城内が混乱しているという虚報を流します。龍興様が伊勢に逃亡した、あるいは三人衆が内紛を起こした……何でもよろしい。今川の将たちは、功を焦り、我先にとこの山へ駆け上がってくるでしょう。特に柴田勝家や、若武者たちは、今川の威信をかけて美濃の喉元を食い破りに来る」
「誘い込んで……叩くというのか」
「ただ叩くのではありません。義龍様が守り抜こうとしたこの山を、巨大な火鉢に変える。稲葉山を紅蓮の監獄とするのです」
半兵衛の言葉には、亡き主君への忠義が宿っていた。
のろまと自嘲しながらも土地に執着した義龍。その執念を形にするには、正攻法など必要ない。美濃の地形、炎、そして敵の「欲」――そのすべてを使い切る、魔道とも呼べる軍略であった。
稲葉一鉄は、半兵衛の顔をじっと見つめた。
「……半兵衛。お前、義龍様に引きずられているな。その策、失敗すれば美濃は文字通りの灰燼に帰すぞ」
「承知の上です。ですが、今川の『法』という名の籠に、おとなしく収まるのは美濃者の矜持が許しませぬ。道三様が残し、義龍様が命をかけて守ったこの地……。もう一度、義元に、美濃の毒を味わわせて差し上げようではありませんか」
三人衆は、互いに視線を交わした。
彼らもまた、戦国を生き抜いてきた「蝮」の眷属である。合理的で美しい今川の統治に惹かれる心がないわけではない。しかし、目の前の若き天才が語る「一矢報いる」という情熱に、彼らの侠気が疼いた。
「よかろう、半兵衛。その知略、我ら三人衆が支えてやる」
「今川に、この山は登れても、降りる道はないことを教えてやろうぞ」
辞する際、半兵衛は最後にもう一度だけ、義龍の亡骸に深く頭を垂れた。
(義龍様、見ていて下され。)
その日の夜、稲葉山城から不自然な流言が、墨俣の今川陣営に向けて放たれた。
それは、美濃という名の巨大な怪物が、大きく口を開けた瞬間であった。
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