第百九十九話 波多野動く
光秀の号令と共に、斎藤利三と明智秀満の槍隊が、怒涛の勢いで斜面を駆け上がった。四王天隊が「意図的に開けた」空白地帯を、今川の精鋭が雪崩を打って通り抜ける。伏兵戦術の要であった「多角的な連携」を封じられた荻野勢は、一転して各個撃破の憂き目に遭い、山岳は今川軍の旗で染まっていった。
「……やはり、そうなったか」
直正の本陣。直正は、四王天が寝返った、あるいは戦意を喪失したという報を聞いても、驚きを見せなかった。むしろ、その表情にはどこか清々しささえ漂っていた。
「政孝。お前には守らねばならぬ家がある。俺という鬼に付き合うのは、ここまでで十分だ」
直正は朱塗りの甲冑を締め直し、わずか数百の旗本を前に、愛槍を掲げた。
「者共! 四王天を責めるな。あやつは己の道を選んだに過ぎぬ。ならば、俺たちは俺たちの誇りを選ぶ。今川の法に屈せず、この山と共に果てる鬼の意地を、天下に見せてやろうではないか!」
直正は、全軍を城へ撤退させるための殿を自ら買って出た。
押し寄せる今川の八千を超える大軍を、わずか数百で迎え撃つ。直正は、かつての伏兵戦術を捨て、真っ向から利三の槍隊に激突した。
「我こそは丹波の赤鬼と謳われし、荻野直正! 今川の将、首を置いてゆけ!」
その咆哮は山々に反響し、追撃する今川軍を戦慄させた。直正は一人で十人を斬り伏せ、返り血を浴びて仁王立ちになり、光秀の眼前に立ちふさがった。
激闘の末、直正は満身創痍となりながらも、主力部隊を城内へと逃がし切った。
追撃を止めた光秀は、夕闇に沈む山肌で、遠く黒井城を仰ぎ見た。四王天政孝の離脱により、丹波国人衆の結束は砕けかかっている。
「四王天の『理』と、直正の『意地』……。どちらも武士の真実に違いあるまい」
光秀の傍らには、調略を行った藤孝が立っていた。
「直正殿という一柱を犠牲にせねば、丹波の静謐は成らぬ。これが権中納言様の求められる『法』の残酷さにございますな、十兵衛殿」
黒井城を包囲する今川軍の背後で、もう一つの巨影が動き始めていた。丹波国において荻野直正と並び称される名門、奥谷城主・波多野秀治である。
直正の孤立、そして四王天政孝の離反という報は、奥谷城の奥深くに座す英晴のもとにも届いていた。長岡藤孝からの調略の文を握りつぶし、秀治は静かに立ち上がった。彼にとって、今川の「法」とは、代々受け継いできた波多野の誇りを縛る鎖に他ならなかった。
「直正をこのまま死なせれば、次は我が波多野の番。今川の犬となった四王天を嗤い、丹波の武士の意地を見せてくれよう」
秀治の号令一下、奥谷城からは三千の精鋭が雪崩を打って出陣した。それは今川軍の背後を突く進軍であった。波多野軍の参戦により、黒井城を囲んでいた明智光秀の軍勢は、逆に「挟撃」されるという絶体絶命の窮地に立たされる。
光秀の本陣に、伝令の悲鳴が響き渡る。
「背後より波多野軍! その数三千、凄まじい勢いで迫っております!」
明智光秀は、静かに地図を見つめた。
「牽制するつもりが、波多野まで引き込んでしまったか。……藤孝殿、波多野殿は『理』よりも『情』を、いや、丹波の誇りを選ばれたようですな」
傍らの長岡藤孝は、苦い表情で頷いた。
「私の文も、名門の誇りを逆撫でしたかもしれませぬ。ですが十兵衛殿、これこそが乱世。理で動かぬ者には、力で応えるほかありますまい」
この窮地に際し、明智光秀の決断は電光石火であった。
光秀はすぐさまその双眸に覚悟を宿して告げた。
「藤孝殿、これより私は雑賀衆と五千の兵を率いて波多野に当たります。この黒井城の抑えは、貴殿にお任せしたい」
藤孝は、光秀が託そうとする布陣を見て、即座にその意図を理解した。光秀の背後には、明智軍の双璧である齋藤利三と明智秀満の二人が、鬼気迫る形相で控えていたからである。
「利三、秀満。お前達の槍に黒井城の『赤鬼』を預ける。藤孝殿を助け、直正を城に釘付けにせよ。私が波多野を退けるまで、一歩も退くことは許さぬ」
「承知! 直正に波多野との連携など決してさせませぬ!」
利三の咆哮と秀満の深い頷きを確認すると、光秀は翻って愛馬に跨った。
「孫一殿、準備はよいか」
光秀の問いに、鈴木孫一はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、愛銃の火縄を振った。
「待ってたぜ、明智の旦那。山岳の鬼ごっこはもう飽きた。平地に近いあっちなら、俺たちの本領を発揮できる」
光秀は雑賀衆と五千の軍勢を反転させ、波多野軍が突き進んでくる街道へと急行した。
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