第百九十八話 四王天政孝
荻野直正が丹波の峻険な山岳地帯で兵を縦横無尽に操り、今川軍を翻弄し続ける中、明智光秀は焦燥を押し殺しながら戦況を見つめていた。黒井城外の戦いは、単なる兵力の激突ではなく、山そのものを防壁に変えた直正の軍略との戦いに変貌していた。光秀は武力のみではこの「赤鬼」を屈服させることは困難であると悟り、直正の背後でその戦術を遂行する有力な国人衆の存在に着目した。その筆頭こそが、氷上郡に根を張り、一族と共に戦場を駆ける剛の者、四王天政孝であった。
今川軍の本陣では、連日の山岳戦による疲弊が色濃く漂っていた。斎藤利三や明智秀満の槍隊がどれほど奮戦し、斜面を駆け上がっても、直正が編み上げた伏兵の連動がそれを押し戻す。光秀は机上の地図を指先でなぞりながら、静かに策を練っていた。
「利三、四王天政孝という男、どのような人物だ」
傍らに控える斎藤利三が、汗を拭いながら応じる。
「剛勇無比。彼が率いる一隊の突破力は、荻野軍の中でも屈指。ですが、単なる荒武者ではありませぬ。一族の安泰を第一に考え、領民を慈しむ、理を解する男と聞き及んでおります」
光秀の瞳に、鋭く冷徹な光が宿った。
「……ならば、道はある。武力でねじ伏せるのではなく、今川の『法』と『理』を以て、直正殿の右腕を切り崩す。四王天を引き抜けば、直正殿の戦力が低下するだけでなく、氷上郡の国人衆の心に決定的な楔を打ち込むことができる」
光秀が見据えていたのは、目前の戦勝だけではない。戦後の丹波を統治するために、現地の有力者である四王天を味方に引き入れることは、最も効率的な「静謐」への近道であった。
光秀は、与力として参じている長岡藤孝に助力を求めた。藤孝はその洗練された教養と格調高い書により、相手に「格」の違いを分からせ、今川という巨大な秩序に属することの優越感を抱かせるに十分な力を持っていた。
「藤孝殿、四王天政孝へ文を書いていただきたい。今川が求めるのは丹波の滅亡ではなく、法による静謐なり。四王天一族の知行を完全に安堵し、今川家の家臣としてさらなる高みへと導く約束を綴っていただきたいのです」
藤孝は筆を走らせながら、静かに付け加えた。
「……四王天殿も、いつまでも山の中で鬼と共にあるのが最上とは思っておられぬはず。光秀殿、この文には私の誠意も乗せましょう。彼が『武士』として重んじられる道を示すのです」
藤孝の筆による書状は、単なる書状ではなかった。それは、沈みゆく旧時代の船から、今川という新時代の大船へと乗り換えるための「正当なる招待状」であった。
深夜、四王天政孝の陣屋に、今川からの密使が影のように滑り込んだ。届けられたのは、藤孝の麗しき書状と、光秀が自ら用意した「今川家臣としての待遇」を詳細に記した誓紙である。
四王天政孝は、松明の揺れる火の下で、その書状を何度も読み返した。
(今川の法、明智光秀の理……。荻野の親分への義理はある。だが、このままでは一族共々、山岳の露と消えるのみ。親分は山と共に生きる鬼だが、我らには守らねばならぬ民と家がある……)
政孝は、霧に煙る氷上の山々を見つめた。そこには直正が、今も今川軍を迎え撃つべく牙を研ぎ、闇の中で静かに呼吸している。直正への忠義と、一族の未来。政孝の心は、丹波の深い霧の中で激しく揺れ動いていた。
光秀の狙いは的中しつつあった。
四王天政孝は即座に裏切ることはしなかったが、その進軍は目に見えて慎重になり、荻野軍の緻密な連携にわずかな、「隙」が生じ始めたのである。
「……政孝はどうした。あいつらしくない。動きが鈍すぎるぞ」
前線で指揮を執る直正が、不自然な沈黙を続ける四王天の陣の方角を向き、不審げに眉をひそめる。直正が編み上げた完璧な伏兵の連動が、四王天という一箇所が「機能不全」を起こしたことで、次々と綻びを見せ始めていた。
その頃、光秀は本陣で静かに次の命を下していた。
「利三、秀満。四王天が迷っている今こそ、一気に攻め立てよ。ただし、四王天の旗印が見えたら、あえて道を開け。彼に、今川の慈悲を『形』で見せるのだ」
光秀は今、武力では崩せぬ赤鬼の城を、静かな刃で切り崩そうとしていた。丹波の迷宮が、内側から崩壊を始める音を、光秀は確かに聞き取っていた。
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