第百九十七話 丹波の赤鬼
丹波の空は、まるで意志を持つかのように厚い雲に覆われ、山々の稜線は深い霧の底へと沈んでいた。黒井城を包囲すべく進軍を開始した明智軍・丹波平定部隊。その総大将、明智光秀の眼前には、山陰道の要衝でありながら、どの地とも異なる異様な静寂を湛えた山岳地帯が広がっていた。
対する「丹波の赤鬼」こと荻野直正は、籠城という定石を嘲笑うかのように、二千の精鋭を率いて城外へと打って出た。今川の八千を超える大軍に対し、四分の一の兵力。しかし、この丹波の峻険な地こそが、直正にとっての最強の城郭であった。
直正の戦法は、今川の将たちがこれまで経験してきた「山岳戦闘」を根底から覆すものであった。彼は丹波の山々を単なる戦場としてではなく、巨大な舞台として機能させていた。
「敵の気配が消えた……?」
先鋒を務める明智軍の足軽大将が呟いた瞬間、周囲の風景が牙を剥いた。直正は全軍を一塊にして動かすことは決してない。十人、二十人単位の小部隊を山中のあらゆる死角に「点」として散らし、それらが糸を引くように連動する。
進軍する明智軍の隊列が、狭い尾根道や深い谷間に差し掛かったその時、四方の茂みが一斉に爆ぜた。
「放て!」
直正の鋭い号令が山霊のように響き渡る。だが、姿は見えない。明智軍の左翼が矢の雨に晒されたかと思えば、その混乱を突くように右翼の崖上から巨大な石が転がり落ち、隊列を無残に寸断していく。
直正は「面」での衝突を徹底して避けた。今川の数という暴力を封じ込めるため、敵を細かく切り分け、孤立した小集団を確実に仕留めていく。それはまさに、山そのものが呼吸し、侵入者を一つずつ咀嚼していくかのような、巧緻を極めた戦ぶりであった。
この混乱を収めるべく、光秀は紀州が誇る最強の火器集団、雑賀孫一を投入する。
「けっ、山猿どもが。鉄砲の音を聴けば、鬼も腰を抜かすだろうよ」
孫一は不敵に笑い、狙撃の名手たちを配した。しかし、ここでも直正の「巧緻」が雑賀衆を翻弄した。霧の中にぼんやりと人影が見える。「そこだ!」と雑賀の鉄砲が一斉に火を噴く。だが、手応えがない。弾丸が貫いたのは、木の枝に被せられた古びた着物や、風に揺れる藁人形であった。
「……空撃ちか! 野郎、俺たちを馬鹿にしやがって!」
孫一が激昂した瞬間、鉄砲の硝煙が霧と混ざり合い、視界がさらに悪化する。直正はこの「目隠し」を待っていた。発砲直後の弾込めの隙を突き、本物の「赤鬼」の兵たちが、猿のごとき速さで木々から滑り降りてくる。
「今だ! 雑賀衆の首を獲れ!」
斜面を駆け下りる荻野勢の咆哮。近接戦に持ち込まれれば、鉄砲隊は不利を極める。百発百中の腕を持つ孫一といえど、実体のない「虚」を撃ち続けさせられ、かえって自らの首を絞める結果となっていた。
本陣の光秀は、戦局が完全に直正の盤上にあることを悟った。ここで兵を引けば、丹波の国人衆は勢いづき、今川の「静謐」は霧散する。光秀は、明智軍の屋台骨である二人の将に命を下した。
斎藤利三と明智秀満。この二人の「槍」こそが、山岳の迷宮を切り裂く最後の鍵であった。
「山を攻めるのではない、鬼の息遣いを探れ!」
利三は狂気すら漂う形相で、自ら大身槍を振るい、泥濘む斜面を駆け上がった。彼は伏兵が潜むであろう茂みに対し、精密な「突き」ではなく、周囲の木々を根こそぎなぎ倒すほどの苛烈な「薙ぎ」で突っ込んだ。直正が用意した「隠れ蓑」を物理的に破壊し、隠れ潜む敵を引きずり出す。
一方で、秀満は利三が切り開いた穴から逆襲しようとする敵の遊撃隊を冷静に見極めていた。
「内蔵助殿、無理は禁物! 敵の反撃はこちらで叩く!」
秀満は長槍を横に並べ、斜面の勾配を利用して「槍の壁」を作り上げた。下から突き上げる利三の剛勇と、それを支える秀満の沈着。この二つの力が噛み合った瞬間、ようやく直正の「見えざる陣」に亀裂が走り始めた。
激闘の最中、光秀は本陣から戦場を一望していた。利三たちが押し返しているように見える。だが、光秀の胸を騒がせるのは、直正という男の「底知れなさ」であった。
ふと、霧が薄れた瞬間、対面の尾根に朱塗りの甲冑を纏った男の姿が見えた。荻野直正その人である。彼は慌てる様子もなく、利三たちの奮戦を眺め、不敵な笑みを浮かべていた。まるで、「今川軍はこの程度か」と問いかけているかのように。
「荻野直正……。たった二千でこれほどの抵抗を見せるとは。あのような男こそ、今川の静謐に欠かせぬ力なのだが……」
山々に響き渡る怒号と、断続的に鳴り響く銃声。
丹波の赤鬼・荻野直正と、明智軍の意地がぶつかり合う山岳戦は、凄惨な持久戦の様相を呈し始めていた。




