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義元英雄伝  作者: 日向 守
義元包囲網編

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第二百話 荒木鬼


勢いに乗って今川軍の背後を食い破らんと突き進んでいた波多野秀治は、前方に立ち塞がる新たな軍勢に目を見張った。


「……明智光秀自らが出てきたか。よかろう、波多野の意地、とくと味わうがいい!」


秀治は全軍に突撃を命じた。だが、光秀は冷静であった。彼は闇雲にぶつかるのではなく、雑賀衆の鉄砲を最大限に活かすため、街道沿いの高台に鉄砲隊を扇状に配備させたのである。


「撃てッ!」


光秀の号令と共に、五百挺を超える雑賀の鉄砲が一斉に火を噴いた。

黒井城の森の中とは違い、視界の開けた街道筋において、雑賀衆の狙撃は正確無比であった。波多野軍の先鋒が、目に見えぬ「死の壁」に衝突したかのように、次々と崩れ落ちていく。


「怯むな! 突き進め!」


秀治の叫びも、絶え間なく鳴り響く銃声と硝煙の中に掻き消された。孫一率いる雑賀衆は、波状攻撃を繰り出し、波多野の精鋭たちを寄せ付けない。


光秀は、硝煙の向こう側で必死に采配を振る秀治を冷徹に見据えていた。


「波多野殿。貴殿の誇りは尊いが、今はそれを、今川の静謐を乱すための刃として使わせはせぬ。この一戦、理を以て貴殿の意地を挫いて差し上げよう」


光秀の五千は、雑賀の火力を盾に、波多野の三千をじりじりと押し返していく。

しかし優勢な明智軍の前に新たなる脅威が立ち塞がった。波多野秀治の配下にして、多紀郡・荒木城を守護する猛将、荒木氏綱である。


氏綱はその武勇の凄まじさから「荒木鬼」と称され、その背後には波多野家中でも屈指の精鋭たちが控えていた。黒井城の「赤鬼」直正に続き、今度は「荒木鬼」という二つ名を持つ男が、今川の「理」を粉砕せんと牙を剥いたのである。


「明智光秀の首、この荒木氏綱が貰い受ける! 道を開けよ、雑兵ども!」


氏綱は身の丈ほどもある大太刀を振り回し、明智軍の先鋒へと突っ込んだ。その勢いは、雑賀の鉄砲隊が放つ弾丸の雨をさえ掻き消さんとするほどであり、氏綱が率いる荒木勢は明智軍の陣列を力任せに押し広げていく。


光秀は、利三や秀満といった主力級の槍隊を黒井城の抑えに残しており、手元には五千の兵と雑賀衆がいた。だが、氏綱の突進は想像を絶する熱量を帯びていた。


「……何という剛勇。丹波にはまだ、これほどの将が控えていたか」


光秀の傍らから、一人の将が静かに前に出た。溝尾茂朝である。


「左兵衛佐様、ここは私にお任せを。派手な功名は立てられませぬが、あの鬼をこれ以上先へは進ませませぬ」


茂朝は利三のような苛烈さや、秀満のような華麗な機略には欠けるが、戦の基本に忠実であり、何より手堅い戦をする男として光秀の厚い信頼を得ていた。


茂朝は、荒木軍の突撃に対し、闇雲に兵をぶつけることを避けた。彼は地形を素早く見極め、街道の細くなった箇所に陣盾を並べさせ、長槍の穂先を密に並べた槍衾を築いた。


「荒木殿、貴殿の武勇は認めよう。だが、法を乱す刃は、この溝尾が折らせていただく」


氏綱の大太刀が茂朝の盾を粉砕せんとするが、茂朝はすぐさま予備の兵を投入し、穴を埋める。氏綱が「動」ならば、茂朝は「静」で迎え撃った。


氏綱の足が茂朝の防陣によって止まった瞬間、鈴木孫一の号令が飛ぶ。


「 よく止めたな! 後の掃除は俺たちの領分だ!」


雑賀衆の鉄砲が、氏綱の側面に展開する。茂朝が作った「壁」に敵が押し固められたところへ、雑賀の連瓶撃ちが襲いかかった。

街道には轟音が鳴り響き、荒木勢の突進力は物理的に削ぎ落とされていく。氏綱は肩に被弾しながらもなお咆哮を上げたが、茂朝の冷静な指揮に阻まれ、ついに撤退を余儀なくされた。


「……おのれ明智光秀。だが覚えておけ、丹波の地は一人の鬼を斬れば済むような柔な国ではないぞ!」


荒木軍を退け、波多野軍の攻勢を何とか押し返した光秀は、硝煙が漂う戦場を見渡した。


「……荻野直正、波多野秀治、そして荒木氏綱か。丹波という国、これほどまでに人材が豊富であったとはな」


光秀は、かつて自分が考えていた「静謐」への道のりが、想像以上に険しいものであることを痛感していた。法を以て秩序を敷こうとする今川に対し、丹波の将たちは己の誇りと土地への執着を武器に、次々と「鬼」となって立ち塞がってくる。


「茂朝、大義であった。お前の堅実さが、荒木の猛攻を食い止めた」


「勿体なきお言葉。ですが左兵衛佐様、丹波の霧はまだ晴れそうにありませぬな」


光秀は頷き、再び黒井城の方向を見つめた。そこには、利三と秀満が今もなお「赤鬼」と対峙しているはずである。丹波の国が秘める底知れぬ力に舌を巻きながらも、光秀は次なる「一手」を求めて思考を巡らせるのだった。


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