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義元英雄伝  作者: 日向 守
義元包囲網編

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第百九十五話 義元の裁き


翌日、義元の前には、阿波と讃岐の命運を分ける四通の書状が並び、そしてその向こうには、今川軍に捕らえられた三人の男女が引き出されていた。


三好長治、その母・小少将。そして、小少将の寵愛を受け、長房亡き後の篠原家を簒奪しようとした不義の徒、篠原実長である。


義元は、捕らえられた三人を見遣った。長治は観念したかのように目を閉じ、小少将は傲然と義元を睨み返し、実長は震えながら地を這っている。


「村重よ。書状を読み、この三人の面構えを見た。……特に、その篠原実長。長房の一族の庶流でありながら、小少将と通じ、己が一族の長を死に追いやる手助けをしたという男か」


「左様にございます。長房殿という阿波の良心を殺した真の毒は、小少将の情念と、この実長の野心にございました。篠原の長の座を継ぎながら、その名と魂を汚した男……相伝殿が激昂するのも無理はございませぬ」


「長治はどうだ。自らの母が、忠臣の同族と通じ、国を乱すを黙って見ておったのか」


「それがこの男の業にございます。母への思慕ゆえに、実長の不義も、長房殿の無念も、すべて見て見ぬふりをした。……哀れな傀儡にございますな」


義元は静かに立ち上がり、扇子で実長を指した。

義元は実長の姿を冷徹に見据えた。実長は篠原長房の同族でありながら、小少将と不義密通し、阿波の柱石であった長房を死に追いやった男である。その行為は、今川が掲げる「秩序」を内側から腐らせる最も忌むべき背信であった。


「相伝が長房殿との友誼ゆえ、実長を八つ裂きにしたいほど憎んでいることは察しておる。だが、此処は今川の領土。行われるのは私刑ではなく、今川の法による裁きでなければならん」


傍らの村重が、頭を垂れる。義元は言葉を続けた。


「実長。其方は一族を裏切り、不義を以て国を乱した。今川の法に照らし、其方には死罪を申し付ける。……実長の身柄は相伝に預ける。だが、これは私怨を晴らすためではない。長房殿を失った阿波の『無念』と、今川の『正義』を、相伝が名代として執行するためだ」


「……名代、にございますか」


「左様。独断での惨たらしい殺しは許さぬ。長房殿の墓前で、正々堂々とその罪状を読み上げ、武士の作法を以て刑を執行させよ。相伝の手で、長房殿の汚された名誉を、今川の法の下に清めるのだ」


実長が絶叫を上げながら引き立てられていく。私怨という名の暗い炎が、義元の言葉によって、今川の秩序を守る「大義」という静かな光へと変わった瞬間であった。


次に、義元は長治と小少将に向き直った。


「長治。其方は弟である十河存保の開城の功に免じ、命までは取らぬ。だが、当主の座に留まる器にあらず。高野山へ入るが良い。三好の者たちは、今川の臣となった義継が預かる。……小少将、其方の美貌と情念は、一国を滅ぼすに十分すぎた。これ以上、四国を汚させるわけにはいかぬ、其方は一国を揺るがしたその業を悔い、尼として静かに余生を過ごせ。二度と政に口を出すことは許さぬ」


長治は深々と頭を垂れ、小少将は唇を噛んで黙した。義元の裁きは、三好という名門の「形」を壊さず、しかしその「毒」を完全に取り除く、極めて政治的な公正さであった。


裁きを終え、村重の背中に、夕刻の風が吹き抜ける。義元と差し向かいになった荒木村重が、堪えきれぬといった風に口を開いた。


「権中納言様。……あえて苦言を呈させていただきます。小少将への処断、いささか甘くはございませぬか。あの女は毒婦。生かしておけば、いずれまた男を惑わし、四国に火種を撒き散らしましょう。今ここで首を刎ねるのが、最も確実な『静謐』かと」


義元は静かに茶を啜り、村重を真っ向から見据えた。


「村重よ。死は一瞬の罰に過ぎぬ。あの女にとって、死は『三好を滅ぼした伝説の魔性』として名を残す完成に過ぎぬのだ。余が与えるのは、完成ではなく『無』よ」


「無、にございますか」


「左様。髪を落とし、着るものも、語る相手も、鏡すらも取り上げる。己の美貌が衰え、誰からも忘れ去られていく様を、狭い庵の中で何十年も独り見届けさせるのだ。……長房殿が愛し、守ろうとした四国が、今川の下でいかに豊かになり、己の存在がいかに無価値であったかを知りながらな。……死よりも残酷な刑罰だとは思わぬか?」


村重は背筋に冷たいものが走るのを感じた。義元の公正さは、罪人の魂から「誇り」や「意味」さえも剥奪する、極めて冷徹な計算の上に立っていた。


そして後日、赤沢相伝が長房の墓前で実長を処刑したのと同じ刻限。

京の片隅で、小少将の断髪の儀が行われた。


相伝は空に向かって呟いた。


「貴女が惑わした男は死に、貴女が縋った権力も消えた。今川の法の下、貴女は今日、この世から消えるのだ」


小少将の美しい黒髪がバサリと床に落ちた。その瞬間、彼女の瞳から初めて光が消え、ただの老いゆく女の顔が露わになった。


勝瑞の空に、新しい時代の秩序が刻まれていく。阿波三好の滅亡は、ただの崩壊ではなく、今川という巨大な法による「再編」であった。


村重は思う。義元の裁きは、単なる厳罰ではない。赤沢相伝の怨嗟を実長に向けさせて鎮め、義継と存保には「三好の存続」という希望を与えた。


(……公正無私とは、冷徹な計算の上に成り立つ慈悲のことか。今川義元、恐るべきお人よ)


ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。

評価及びリアクションいただけると幸いです。

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