第百九十三話 十河城の夜明け
十河城の夜が明けようとしていた。東の空が白み始め、今川軍の包囲陣から放たれる篝火の煙が、讃岐の低い雲に混じり合っていく。
決断を下した十河存保は、覚悟を決めた眼差しで存之に向き直った。
「いや、兄上の所には私が行こう」
存保の言葉に、存之は一瞬驚きの表情を見せたが、すぐにその意を汲み取り、深く頷いた。
「……承知いたしました。なれば、私は混乱に乗じて小少将を捕縛し、これ以上の策謀を封じます。存保様、どうか『兄弟』としての決着を」
存之は影のように音もなく部屋を去り、小少将の寝所へと向かった。存保は独り、長治が籠もる奥殿へと歩を進めた。その足音は、十河城の廊下に重く、迷いなく響いていた。
奥殿の扉を開くと、そこには暗がりのなか、抜身の刀を膝に置き、茫然と座り込む三好長治の姿があった。かつての阿波の主君としての威厳はどこにもなく、ただ時代の奔流に押し流された敗者の悲哀だけが漂っていた。
「……存保か。義継に城を渡す支度ができたか」
長治の来るべき時が来たか、というようなどこか悟ったような問いに、存保は静かに峻烈な問いを投げかけた。
「兄上。私は……どうしても聞きとうございます。我らの父、実休が亡き後、幼き我らを支え、三好の屋台骨を守り抜いてくれたのは誰であったか。あの忠臣、篠原長房殿を、何故……何故殺してしまったのですか!」
存保の声が震える。
「長房殿が健在であれば……。今川に敗れるにしても、武士として、三好として、これほど無残で、これほど醜い最後ではなかったはずです!」
長治は、存保の激昂を静かに受け止めていた。やがて弱々しく笑みを浮かべて口を開いた。
「三好当主となった時から私に実権はなく、三人衆の操り人形だった。そのような日々の中、母上だけが私を必要としてくれた。私には、母上を見捨てることが、どうしても忍びなかったのだ。母上が長房を疎み、その命を求めた時、私は……主君としてではなく、息子として、母の毒を選んでしまった」
長治は刀を鞘に収めると、深く溜息をついた。
「……だが、それが三好滅亡の、最後の引き金となったか。長房を失い、私は己の魂をも失っていたのかもしれぬ」
長治は立ち上がり、城外の今川の「二つ引両」が翻る包囲陣を見つめた。そこには、三好の誇りを守るために泥を被った義継がいる。
「思えば、私は母上や三人衆に翻弄されるがままであった。三好の当主であるという自覚すら、今の今まで持てずにいたのかもしれぬ……。存保よ、三好の本家を継いで間もない頃の義継も、私と同じ境遇であったはずだ。傀儡として担ぎ上げられた義継と私……一体、何が違ったのであろうな」
存保は、兄の問いにすぐには答えられなかった。
確かに三好義継もまた、若くして三好長慶の跡を継いだ当初は、三好三人衆や松永久秀という巨魁たちの間で揺れ動く「象徴」に過ぎなかった。実権は三人衆にあり、義継はただその名を貸したに過ぎない。
「……義継殿も、かつては迷いの中におられました」
存保は静かに語り始めた。
「三人衆に囲まれ、思い通りにならぬ日々に、あの方も絶望されたはずです。しかし、義継殿が兄上と違ったのは、『泥の中に沈む自分』を良しとせず、泥を啜ってでも自らの足で立つ道を選ばれたことでしょう」
義継が長治と決定的に異なったのは、己を縛る古い因習を捨て、外敵であったはずの今川義元という「新たな理」に自ら飛び込んだ点にある。
「義継殿は、三好の誇りを守るために、三好の『形』を捨てる勇気を持たれた。三人衆の操り人形として腐りゆくよりも、今川の静謐を担う一翼として、汚名を雪ぐ道を選んだのです。対して……」
存保は言葉を濁したが、長治が自らその先を引き取った。
「対して、私は母という名の情愛の檻から、一歩も外へ出ようとしなかった。……そうだな。私は、三好の名を汚さぬことよりも、母の笑顔を失わぬことを選んでしまったのだ」
長治は、静かに目を閉じた。
「義継には、彼を叱り、導く者がいなかったゆえに、自らを今川に見出すしかなかった。私には長房という、正しき道を示す者がいながら……自らその目を潰した。それが、当主としての私の『罪』よ」
長房が生きていれば、たとえ今川に降るにしても、三好の名を辱めぬ堂々たる和議を引き出せたはずである。長治はその可能性を、自らの手で絶ったことを改めて痛感していた。
「三好の名は、義継が守ってくれよう。あやつならば、今川の静謐の中でも、三好の種を絶やすことはあるまい。……存保よ。お前とは進む道が分かれたが、最後にこの十河で語り合えたこと、嬉しく思うぞ」
義継は、泥の中から這い上がり、今川の中で大輪の蓮の花を咲かせようとしている。
長治は、泥の中に沈みながらも、最後の一瞬に「一族の愛」という名の幻影を抱いて消えていく。
「さあ、参ろうか。三好の最後を、義継に見届けてもらわねばならぬ」
讃岐の夜明けの光が、十河城の廊下に差し込む。
城外には、かつて自分たちが排斥した赤沢相伝の冷ややかな視線と、全てを飲み込む今川の「静謐」が待ち構えていた。
当主としての自覚を持たぬまま、翻弄され続けた一人の若者の生涯は、今、ようやく「己の意志」による最後の歩みを踏み出そうとしていた。
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