第百九十二話 兄弟の決断
十河城を幾重にも囲む篝火が、夜の帳を赤黒く染めていた。
小少将の執念と、義継の正論。その激しい板挟みに遭い、心身ともに摩耗しきった十河存保は、深い沈黙を守る一人の男の部屋を訪ねた。
十河家家老、十河存之である。
十河存之は、三好義継の腹違いの弟である。かつて十河重存だった義継が義興の死後、三好本家の養子となった折、本来であれば一存の実子である存之が十河の家を継ぐのが自然の理であった。しかし、生母の身分が低かったことが災いし、十河の家督は三好実休の次男である存保が養子として入ることで継承されたのである。
以来、存之は自らの家督相続の機会を奪った存保を「家老」として支え続けてきた。その心中、どれほどの屈託があったか。あるいはどれほどの忠義があったか。存保は、この極限の状態に至り、初めてその「影」に光を当てようとしていた。
「……存之。私は、どうすればよいと思う」
存保の問いは、掠れていた。十河の城主としてではなく、一人の男として、自分に家を奪われた男に救いを求めたのである。
存之は、手入れしていた脇差を鞘に収めると、静かに顔を上げた。その面構えは、城外で軍を率いる実兄・義継に驚くほど似通っていた。存之の瞳には、実の兄・義継が持つ「峻烈な覚悟」と同じ光が宿っている。
存之は静かに、しかし力強く、存保に究極の問いを突きつけた。
「存保様。今、貴殿の前には二人の兄の生き様がある。……一人は、名将・長房殿を死に追いやり、小少将の情念に流されつつも、三好としてあろうとする長治様。そしてもう一人は、あえて『今川の法』に服し、新しき世の秩序の中に三好の種を遺そうとする我が実兄、義継。どちらの生き様を、十河当主たる貴殿の魂は『良し』とされるか」
その言葉は、存保が心の奥底に蓋をしていた問いそのものであった。
存之は、床に置いた拳を強く握りしめた。
「本来、十河を継ぐべきであった私は差し置かれ、貴殿が養子としてこの城に入ったあの日。私は父・一存の魂が他人の血に奪われたと絶望した。……だが、今の貴殿の迷い、苦しみは、肉親の情と板挟みになりながらも誰よりも十河の当主として正しくあろうとする証拠。ならば、私は兄である義継を贔屓することもしませぬ」
存之の言葉には、私情を超えた誠実さがあった。
「肉親の情を取り長治様と共に、旧き三好の情念に殉じて滅びるか。あるいは義継様と共に、今川の静謐の下で十河の血を次代へ繋ぐか。……どちらを選んだとて、私は十河家の家老として、その決断に従い、共に地獄へも極楽へも参る所存にございます」
存保は、震える手で自身の膝を掴んだ。
長治は血を分けた本当の兄である。しかし、その生き様はあまりに脆く、多くの忠臣の血を流させた。対して義継は、養子に入った自分から見れば義理の兄に過ぎないが、その背中には、かつての叔父・長慶が目指した「理による統治」の残照があった。
「存之……。私は、十河の家臣たちを死なせたくない。そして、義父上たちが命を懸けて守ったこの讃岐を、これ以上戦火で焼きたくはないのだ」
「……決まりましたな」
存之は深く頭を垂れた。その礼は、もはや「身分のせいで家督を奪った憎き養子」へのものではなく、苦悩の末に己の道を見出した「真の十河当主」への敬意であった。
「なれば、すぐさま手筈を。小少将と長治様には、私が引導を渡しましょう。……赤沢殿や荒木殿が痺れを切らす前に、十河の誇りを守り抜くのです」
十河城の東の空が、白み始めていた。
風前の灯火であった三好家。しかし、存之という「影」の支えを得た存保の決断は、今川義元の圧倒的な武威の前に、もう一つの「理」を示そうとしていた。阿波から逃れてきた情念の連鎖は、今、十河兄弟の固い絆によって断ち切られようとしていたのである。
存之の方が義継より年長であったとか、そもそも存在したかどうかという話もありますが。
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