第百十五話 興福寺
二条御所が灰燼に帰し、剣豪将軍・足利義輝が壮絶な最期を遂げたその夜。京の都を包む紅蓮の炎は、遠く南都・奈良の空までも不気味に赤く染めていた。しかし、闇はまだその渇きを癒してはいなかった。甲州透破の次なる標的は、亡き将軍の弟であり、足利の血脈を継ぐ興福寺一条院の門跡・覚慶であった。
深夜の興福寺境内は、霧とも煙ともつかぬ白い帳に包まれていた。その静寂を破り、音もなく塀を越え、影法師たちが雪崩れ込む。武田信玄の命を帯びた透破集団の別動隊である。彼らにとって、将軍義輝を討つことは「序章」に過ぎなかった。足利という名の「正当なる旗印」をこの世から完全に抹殺し、禅譲を阻止することこそが、彼らの真の任務であった。
しかし、その影たちが境内の奥へと足を踏み入れようとした瞬間、凄まじい風切り音が闇を裂いた。
「興福寺の聖域、汚させるわけにはいかぬ。ここから先は、一歩たりとも通さぬ」
透破たちの行く手を阻んだのは、柳生宗厳、宝蔵院胤栄が率いる門弟と僧兵たちの群れであった。新陰流の理を体現するかのような、柳生門弟たちの鋭く無駄のない打ち込み。そして、月光を反射して怪しく煌めく、宝蔵院流の代名詞たる十文字槍。
「……大和の武芸者どもか。覚慶一人のために、命を捨てるか」
別動隊を率いる影の冷徹な声が響くが、宝蔵院胤栄は不敵に笑い、槍の石突きで石畳を鳴らした。
「命を捨てるのではない。我らはただ、この地の静寂と、我らが守るべき理法を貫くのみ。お主らのような影の類に、この寺の土を踏む資格はない!」
槍の穂先が円を描き、透破達を一度に薙ぎ払う。柳生石舟斎は未だ抜刀せず、ただそこに立つだけで、透破たちの動きを完全に封じ込めていた。それは、二条御所で義輝が見せた「夢想剣」にも通じる、武の極致が生む静かな威圧感であった。
門前での斬り合いが混迷を極めるなか、重厚な山門が内側から地響きを立てて開いた。松明の火が闇を追い払い、姿を現したのは松永久秀率いる鉄砲隊であった。久秀は、三好三人衆と共にあった息子の久通から、密かにこの暗殺計画を報らされていた。父子の絆というよりは、乱世を生き抜く者同士の情報共有であったが、それゆえに久秀は、今宵何が起こるかを誰よりも正確に予期し、先手を打っていたのである。
「三好の誼を期待されたか? 悪いが、我が主・長慶様は将軍家をいかに追い詰めようとも、その命を奪うことだけはなさらなかった。それが、天下を統べる者が守るべき『矜持』というもの。三人衆や貴様らの主のやり口は、いささか野蛮に過ぎる」
久秀の言葉は皮肉に満ちていたが、その眼光は鋭かった。彼は三好家臣でありながら、今川義元が目指す「法による統治」に、一種の共鳴を感じ始めていたのかもしれない。あるいは、武田信玄という「影の主」が畿内にまで手を伸ばすことを、本能的に拒絶したのか。
「放て!」
久秀の号令とともに、鉄砲の轟音が南都の静寂を粉砕した。火縄の火花が散り、鉛の弾丸が透破たちを撃ち抜いていく。柳生・宝蔵院の個の武力と、松永の組織的な火力が噛み合ったことで、戦況は決定的となった。
「……仕損じたか。これ以上の深追いは無益。京の混乱を拡大させれば、それで良し」
影は、松永の軍勢と武芸者たちの厚い壁を睨みつけると、煙幕を焚き、霧の中へと溶けるように去っていった。嵐は去った。しかし、境内に残されたのは、血の臭いと、重苦しい現実だけであった。
事態が沈静化した後、柳生石舟斎は静かに息を整え、久秀に向き直った。
「弾正殿。御助勢、痛み入る」
「礼には及びませぬ。大和の武の極み、この久秀、とくと拝見した。だが、これで終わったわけではないぞ。義元の『法』がこの地を覆えば、いずれ貴殿らのような武芸者も、その牙を抜かれることになる。……それでも、この寺を守るか」
胤栄が槍を突き立て、不敵に答えた。
「牙を抜かれるか、理に組み込まれるか。それを決めるのは、我らの腕と志次第ですな」
そこへ、馬を乗り潰し、風を纏って細川藤孝が駆け込んできた。彼は、崩れ落ちた二条御所で、龍興に将軍義輝の壮絶な最期を聞き、ここまで走ってきたのであった。
「覚慶様! 覚慶様はご無事か!」
藤孝は狂ったように寺の奥へと突き進んだ。彼を迎えたのは、数珠を手にし、微動だにせず仏前に座す覚慶の背中であった。
「覚慶様、兄君・義輝公は討たれました……。もはや、この地も安全ではございませぬ。まずは安全な場所へ、そして……還俗を! 足利の灯を絶やさぬために、この藤孝と共に、義元公のもとへ!」
藤孝は、覚慶を「足利の次代」とするべく必死に訴えかけた。藤孝も、そして覚慶自身も、義輝が義元へと秘密裏に持ちかけていた「禅譲」の話は知っている。義輝がなそうとしていた「禅譲」という名の平和への道。藤孝は、覚慶こそがその「最後の中継ぎ」になるべきだと信じていた。
だが、ゆっくりと振り返った覚慶の瞳に宿っていたのは、野心でも恐怖でもなく、底知れぬ無常観と哀しみであった。
「……断る。藤孝、私はどこへも行かぬ」
覚慶の声は、静かに、しかし断固として響いた。
「兄上が、あの剣を極めた兄上が、それでも血の海に沈んだのだ。私のような未熟な者が還俗し、旗印に担ぎ上げられたところで、何ができる? また新たな戦乱を招き、誰かの命を奪う口実になるだけではないか。禅譲……。兄上は今川にすべてを託そうとされた。なれば、私が今更立って、義元殿の邪魔をすることもあるまい」
「しかし、それでは足利が……!」
「もう、殺し殺されは沢山だ。藤孝、私はこの南都で、死んでいった者たちの菩提を弔う。一人の僧として果てる。それが、兄上に私ができる、唯一の弔いだ」
覚慶は再び仏前を向き、経を読み始めた。その背中は、もはや一国の主のものではなく、世の苦しみを受け入れようとする一人の求道者のものであった。
松永久秀は、その光景を遠巻きに眺めながら、不敵な笑みを漏らした。
「……やれやれ。将軍家というお家柄は、どいつもこいつも一筋縄ではいかぬ。義元、貴様はこれで、名分という名の『鎧』を失った。裸のまま、この乱世の荒波を渡る覚悟はあるか」
足利家からの禅譲という道を断たれた今川義元。彼は今、自らの手で、自らの言葉で、天下を築くための「真価」を問われようとしていた。
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