第百十四話 不如帰
京の都では、五月雨の湿り気を吹き飛ばすほどの熱気が渦巻いていた。二条御所を包囲する炎は夜空を朱に染め、瓦の焼ける匂いが風に乗って漂う。その中心で、一つの時代が終わろうとしていた。
出浦盛清率いる甲州透破の波状攻撃は苛烈を極めていた。畳を盾に押し包み、長槍でその神速を封じる、武士の誇りを踏みにじるような、しかし合理的な殺法。御所の廊下には、義輝が振るった名刀の残骸が散乱していた。刃毀れした刀、折れた槍、血に濡れた畳。その中で、足利義輝はなおも立っていた。全身には無数の傷。装束は返り血でどす黒く染まり、呼吸は荒い。だが、その眼光だけは、なおも鋭く燃えていた。
致命傷を負い、意識が朦朧とする中で――義輝の剣は、異次元の領域へと達していた。それは後年、剣聖・伊藤一刀斎が至ったとされる境地。「夢想剣」。
思考はすでに働いていない。だが、襲い来る殺気に対し、義輝の身体は寸分違わず反応し、最短の軌道で敵の喉元を貫いていく。無意識の淵。そこにあるのは、ただ剣の理のみ。出浦盛清は、その剣気に背筋を凍らせた。
「……化け物め。これ以上近づけば、こちらの損害が増えるだけか。」
盛清は冷徹に戦況を判断した。これほどの深手、放っておいても義輝の命脈は尽きる。主君・信玄の命は「禅譲の阻止」。その目的の一つは、すでに果たされた。
「引け! あとは炎が始末をつける!」
影たちは夜の闇へと溶けるように去っていった。
燃え盛る回廊の中、義輝は一人残された。足元には、折れた名刀たちが無残に転がっている。だが、義輝の瞳には、死を目前にした絶望など微塵もなかった。
「五月雨は……露か……涙か……。不如帰……。……わ……が名……をあげよ……。……雲の……上まで……」
辞世の句を、途切れ途切れに、しかし凛とした声で詠み終えた時。義輝の口元に、ふと、この世の執着をすべて削ぎ落としたような清々しい微笑が浮かんだ。
「……出来た。……極め……たぞ」
その呟きは、政治の混迷からも、将軍という重呪からも解き放たれ、ただ一振りの「剣」として真理に到達した男の歓喜であった。
「公方様! ……いずこにおわす!」
その時、燃え盛る回廊を突き破り、一人の若き武者が飛び込んできた。一色龍興である。彼は三好の客将として身を寄せていたが、三好の将軍暗殺計画を察知するや否や、かつて父・義龍が受けた足利の恩義を思い起こし、泥にまみれた三好を見限ってこの死地へと駆けつけたのであった。義輝は、霞む視界の中に現れた影に向け、最期の力を振り絞って問いかけた。
「……何奴……だ。……余の……最期を……見届けに来た……か」
龍興は膝をつき、炎に照らされた顔を上げて叫んだ。
「一色義龍が子、一色龍興にございます! 公方様の窮地を知り、参上いたしました!」
義輝の頬が、わずかに緩んだ。
「……左様か。……義龍の……子か。……よくぞ……参った……」
義輝の身体から、急速に力が抜けていく。彼は震える指先で、自身の足元、唯一血に一滴も濡れることなく、白銀の光を放ち続ける一振りの太刀を指し示した。北条家由来の名刀、鬼丸国綱である。
「……龍興。……これを。……治部大輔(義元)に……渡せ。……鬼丸は、下郎の血で汚れておらん。……これを……義元に……」
それが、足利義輝の最期の言葉となった。剣を握ったたまま、魂だけが肉体を離れるように、義輝は静かに、しかし毅然として息絶えた。
「公方様ーーッ!!」
龍興の慟哭が、崩れ落ちる御所にこだまする。降り注ぐ火の粉の中、龍興は義輝から託された、清廉なる「鬼丸国綱」を固く抱きしめた。三好の「不義」と、今川の「理」。龍興の心の中で、かつての暗愚な殻が完全に破れ、新たなる決意が芽生えようとしていた。
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