第百十三話 永禄の変
永禄八年五月。京の二条御所は、静寂に包まれていた。義元が主力を率いて出陣したことで、都の守りは手薄となり、そのわずかな隙を突くべく、闇の軍勢が牙を剥いたのである。
月が雲に隠れた草木も眠る丑三つ時。二条御所の高い壁を、音もなく越える影があった。三好三人衆の依頼を受け、そして今川の勢力拡大を阻止せんとする武田信玄の命を帯びた、出浦盛清率いる甲州透破の一団である。
盛清は、影そのもののような男であった。彼の指揮下にある透破たちは、防備の薄い北東の角から侵入し、警護の武士を瞬く間に始末していく。彼らの目的はただ一つ。足利義輝を暗殺し、義元への「禅譲」という歴史の転換点を、物理的に断ち切ることにある。
「今川に天下を渡すわけにはいかぬ。義輝公には、ここで足利の終焉を演じていただこう」
盛清の冷徹な声が、暗闇の中で霧のように消えた。
寝所に忍び寄る殺気を、足利義輝は床の中で感じ取った。かつて上泉信綱や塚原卜伝から受けた指南が、彼の身体を反射的に動かす。
「……何奴だ」
義輝は枕元に並べていた足利家伝来の名刀の数々――三日月宗近、童子切安綱、大典太光世――のなかから、一振りを迷わず引き抜いた。障子を突き破り、飛来する十字手裏剣を刀身で弾き飛ばすと、義輝は逃げるどころか、鋭い踏み込みで闇を切り裂いた。
「余が将軍の座を下りようとした矢先に、刺客とはな。無粋な真似をするものよ!」
出浦盛清は、正面からの斬り合いと共に搦め手から仕掛ける。配下の透破たちに、畳の下から槍を突き立てさせ、さらには火薬を仕込んだ焙烙玉を御所の各所に投げ込ませた。二条御所は瞬く間に紅蓮の炎に包まれ、美しい庭園は阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
義輝は迫り来る透破を次々と斬り伏せるが、敵は影のように現れては消え、着実にその体力を削っていく。名刀を畳に突き立て、刃毀れするたびに持ち替えながら戦い続けるその姿は、まさに凄絶な「剣豪」のそれであった。
「義元、お主との約束……このような事で!」
義輝の周囲を、黒装束の集団が取り囲んだ。
二条御所を包囲する火の手は、もはや天を衝く紅蓮の柱となり、京の夜を昼間のように照らし出していた。かつてない静寂と熱気の中で、足利義輝は修羅と化していた。
明智光秀も、松平元康も、ましてや義元本人もここにはいない。救援の伝令はことごとく闇に沈められ、御所は外界から切り離された死の庭と化していた。
「面白い……。この余が剣戟の中で果てるとはな」
義輝は不敵な笑みを浮かべ、傍らに突き立てられた名刀の一振りを引き抜いた。畳には数多の天下の名刀が、まるで死出の旅の供を待つかのように並んでいる。
出浦盛清は、崩れ落ちる梁の隙間から、影のように義輝の前に姿を現した。その手には、鎖鎌が握られている。
「公方様、貴方様が今川にその座を譲られると、『黄金の法』が盤石となってしまう……。禅譲などということをされては面白くない御方がいるのです。古き秩序が美しく壊れてこそ、我ら影の主も、乱世の愉悦を味わえるというもの」
盛清の声は、炎の爆ぜる音に混じって冷たく響いた。
「重存、いや……信玄か。あの男、義元を恐れるあまり、余の首を先に欲したか!」
義輝は愛刀を流麗に振るい、迫り来る透破三人の喉元を一閃で切り裂いた。返り血を浴びて装束が朱に染まるが、その瞳はかつてないほどに澄み渡っていた。将軍という重責、足利という家名、それらすべてを炎の中に投げ捨て、今、彼は一振りの「剣」として存在していた。
「義元よ……。禅譲の約束、守れそうにない。許せ。だが、お主に譲るべき将軍職を、このような連中に汚させるわけにはいかぬ!」
義輝の剣は、まさに神速であった。突き、払い、斬り下げる。刃が毀れれば、迷わず畳から次の名刀を引き抜き、再び闇を切り裂く。その凄絶な立ち回りに、死を恐れぬはずの甲州透破たちですら、一瞬、たじろぎを見せた。
「……これが、剣豪将軍の真なる力か」
出浦盛清は、背筋も凍るような戦慄を覚えた。放たれる剣気は炎の熱さを凌駕し、近づく者すべての魂を焼き尽くす。盛清の指先が、わずかに震えた。想像を絶する。一人の人間が、これほどまでに純粋な「暴力」と「美」を両立させうるとは。
(奪れるか……? いや、奪る!)
盛清は自らの震えを、無理やり奥歯で噛み潰した。今、ここで義輝を仕留めねば、武田信玄が描く天下の盤面は今川の「理」によって完全に塗りつぶされる。主君の野望のため、そして甲斐の未来のため、この化け物をここで屠らねばならない。
「者共、ひるむな! 呼吸を合わせろ! 畳を盾にして押し包め!」
盛清の悲鳴にも似た号令とともに、透破たちが四方から巨大な畳を盾にして義輝に殺到した。剣戟の隙を奪い、物量でその神速を封じ込める。
火勢は強まり、煙が視界を奪い、義輝の肺を焦がした。多勢に無勢、そして逃げ場のない紅蓮の迷宮。盛清は、崩れる建物の影から鎖鎌を放った。義輝はそれを紙一重でかわしたが、その瞬間、無数の手裏剣と長槍が彼の身体を全方位から襲った。
「これまでか……」
膝をつきながらも、義輝はなおも一本の刀を正眼に構えた。その背後では、足利の栄華を象徴する御所が、巨大な松明のように燃え盛っている。
茨木城の義元には、この断末魔は届かない。京の闇の中、一人の剣豪が、その「極めたき道」の果てに、独り華々しく散ろうとしていた。
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