第百十二話 因縁の地
二条御所での謁見を終えた今川義元は、淀みない足取りで勝竜寺城へ戻ると、直ちに畿内掌握へ向けて大号令を発した。
三好三人衆が丹波の内藤宗勝と結託し、かつて三好長慶が再起し今川軍が苦戦した因縁の地――摂津・茨木城に兵を集結させているとの報が入ったからである。義元は、将軍義輝から託された「禅譲」という身の震えるような重責に応えるためにも、足利の権威を冒涜する阿波公方擁立の野望を、ここで根絶やしにせねばならなかった。
北方の丹波戦線には、軍政と実務において天賦の才を見せる明智十兵衛光秀と、今川家中屈指の猛将にして「不退転」の象徴たる岡部元信が送り込まれた。光秀は、京での茶会を経て家臣に加わったばかりの斎藤内蔵助利三を、先鋒に指名した。宗及が驚愕した一万石という破格の処遇。光秀はそれだけの将である事を家中に納得させるため、利三に戦場で証明させるつもりだった。利三は、光秀の期待を裏切らなかった。
丹波の霧深い山道。利三は馬上で息を整えながら、胸の奥に燃えるものを感じていた。
(……光秀様は、私の正しさを見てくださった。ならば、この戦で必ず証を立てる。私の義は、ここで生きるのだ。)
利三の瞳は、かつて稲葉家で押し殺していた光を取り戻していた。利三は丹波の山々を、まるで庭先を歩むかのように自在に駆けた。
「鉄砲隊、稜線へ! 撃ち下ろしの角度を取れ!」「伝令! 敵の連絡網を断つ! 山腹の小道を封鎖せよ!」
利三の声は鋭く、迷いがなかった。利三が指揮する精鋭の鉄砲隊は、山の稜線から火を噴き、組織的な波状攻撃で敵を翻弄した。その様は、まさに文武両道の極み。背後を固める岡部元信は、利三の戦いぶりを見て唸った。
「……これほど理に適った戦は見たことがない。光秀殿、良き家臣を得られたな。」
光秀は静かに頷いた。
(内蔵助……。お主の義は、必ずこの乱世を変える。)
こうして丹波からの兵站と援軍は、完全に沈黙した。
一方、摂津の茨木城へ向かう今川本隊は、義元自らが総大将として巨大な陣を構えた。その脇を固めるのは忍耐と忠義の塊・松平元康。そして、織田亡き後に今川の「法」という新たなる大義を見出した「鬼柴田」こと柴田勝家。義元は圧倒的な財力と兵力をもって城を包囲したが、直ちに力攻めをすることはなかった。
「まずは……民を味方につけよ。」
義元の命により、堺から運び込ませた米と黄金が、城周辺の村々に惜しみなく配られた。これは「黄金の法」に従う者には慈悲を、という言葉なき宣告であった。三好に従っていた土豪たちは、今川の圧倒的な理の前に次々と矛を収めた。茨木城は瞬く間に、情報の遮断された孤島と化した。
包囲網の締め付けが最高潮に達した時、先陣を志願した柴田勝家が咆哮した。
「畿内を乱す逆賊ども、この勝家の槍の錆となれ!」
その声は雷鳴のように響き渡り、尾張・美濃武士団の士気を一気に引き上げた。松平元康は、静かに軍を進めた。
「……行くぞ。一歩も退くな。」
元康率いる三河武士団は、計ったかのような規律正しさで外郭の土塁を一つずつ無効化していく。勝家の猛威と、元康の冷静な圧力。二つの武威が、茨木城をじわじわと締め上げていった。
茨木城内に籠もる三好三人衆――三好長逸、三好政生、石成友通は、今川軍の放つ静かなる殺気に戦慄していた。
「な、何だ……この一分の隙もない包囲は……」「外の村々が……皆、今川に……」「阿波からの援軍は!? まだか!」
かつて自分たちが支配した摂津の地は、いまや今川の「法」という名の巨大な檻と化していた。正面には松平元康と柴田勝家。三好の栄華は、風前の灯火であった。
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