第百十一話 日ノ本の王
堺を「黄金の法」によって直轄領とし、その富を今川の血肉へと変える基盤を固めた今川義元。京へと戻った彼を待っていたのは、征夷大将軍・足利義輝からの急ぎの召し出しであった。
二条御所の奥深く。そこには、かつての荒廃から見事に立ち直り、今川の財力によって活気を取り戻した京の街並みを遠くに望む、静謐な空間があった。しかし、その静寂は、時代の断絶を告げる重圧に満ちていた。
「義元よ。此度の堺の差配、実に見事であった。京の民も、貴殿の運ぶ『黄金』によってようやく明日を夢見ることができている」
義輝は穏やかな、しかしどこか達観したような瞳で、眼前に平伏する義元を見据えた。
「余は、上洛の折に貴殿へ伝えねばならぬことがあると言った。……それは、将軍職の禅譲についてだ」
義元の背筋に激しい緊張が走った。一国の守護がどれほど強大になろうとも、室町の秩序において「将軍」は絶対の頂点。その座を譲るという言葉は、二百年続いた足利の世の終焉を意味する。
「今の余は、力なき将軍に過ぎぬ。貴殿のような真に力ある者が現れても、余がその座に居座り続ければ、いずれ貴殿の意を汲まぬ家臣や、野心を抱く他国の者が傀儡にしようとするだろう。……武家が二つの権威を抱えれば、必ずやそこから綻びが生まれる。余を担ぐ者と、貴殿を担ぐ者が争えば、日ノ本は再び地獄と化す。民が再び苦しむ姿を、余は見たくないのだ」
「滅相もございませぬ。私に幕府を傀儡にする気など毛頭、この義元、ただ一門として――」
首を振る義元を、義輝は静かな、しかし有無を言わさぬ重みのある言葉で遮った。
「義元。貴殿にその気がなくとも、天下は、そして貴殿の部下たちはそれを許さぬ。かつて日ノ本の外、宋の国を築いた趙匡胤の例を知っておろう」
義輝の言葉が室内の空気を一段と冷やす。
「彼は帝位など望んでおらず、先帝への忠を尽くそうとしていた。しかし、陳橋の地で酒を飲んで寝ている間に、家臣らによって無理やり黄衣を纏わされ、皇帝に祭り上げられたのだ。家臣らにとって、主が頂点に立つことは己の立身出世そのもの。主の意志など関係なく、状況が主を玉座へと押し上げてしまう。……貴殿の家臣とて同じよ。今川の『法』が天下を覆えば、彼らは自ずと、貴殿を将軍以上の存在にせんと動き出す。その時、余という存在は、彼らにとって『邪魔な古株』に成り果てるのだ」
義輝は立ち上がり、傍らに置いた伝来の名刀を手に取った。
「禅譲の例が無いわけではない。実現こそしなかったが、恐れ多くも我が祖先・義満公は『畏きところ』にさえ禅譲を迫ろうとした。それに、今川(吉良家庶流)は足利の一門。吉良が断絶せば足利が継ぎ、足利が断絶せば吉良が継ぐ……。貴殿が継ぐことに、何の不都合があろうか。公正無私であった初代・尊氏公も、今の京の平穏を見れば、禅譲をお許しくださるはずだ」
義輝の言葉には、自らの家系が背負ってきた「権威と暴力の矛盾」を、自分の代で終わらせようとする悲壮なまでの決意が籠もっていた。圧倒される義元は、絞り出すように一つの問いを口にした。
「……恐れながら、もし私が禅譲を受けたならば。公方様は、その後どうなされるつもりでございますか」
義輝は一瞬、いたずらを見つかった稚児のような顔をすると、抜き放った刀を正眼に構えた。その切っ先は一点の曇りもなく、剣豪将軍としての凄まじい気迫が室内に満ちた。
「余か? ……余には、極めたき道がある。これよ」
その声は、将軍という重責から解放された一人の男の歓喜に満ちていた。
「この重荷を下ろしたならば、余は一振りの剣と共に日ノ本を歩みたい。日ノ本は貴殿のような英傑に任せ、余はただ一人の武芸者として、この剣の理を極めたいのだ。案ずるな、弟の周暠や覚慶にも既に話をし、同意は得ておる。足利の血を引く者たちが納得し、望んでの禅譲よ」
一族を挙げ、未来の平和を今川の「法」に託す。その晴れやかな立ち姿に、義元は己の背負うべき運命の重さを悟り、深く、深く頭を垂れた。
「……上様。そのお覚悟、魂に刻みました。なれど、畿内にはいまだ『法』に従わぬ三好三人衆、そして阿波に燻る不穏な影がございます。これら戦乱の火種を完全に消し去り、真に平和なる日ノ本を上様にお見せするまで、そのお答えは預からせていただきたい」
義元は顔を上げ、鋭い眼光を放った。
「三好を討ち、四国までをわが法の内に収めた時。その時改めて、上様の前で返答を申し上げまする。それまでは……不肖義元、足利の盾として、この世の不浄を焼き尽くしましょうぞ」
義輝は満足げに頷き、刀を鞘に収めた。
「よい。その時を待とう。義元よ、貴殿なら、足利が成し得なかった真の泰平を築けるはずだ」
御所を出た義元の背中には、大国の主という枠を超え、新たなる「天下の主」としての重圧と光彩が宿り始めていた。しかし、この禅譲の密議を、闇に潜む者たちが見逃すはずもなかった。
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