第百十話 股肱の臣
秀吉と出会ったその晩、明智光秀は堺の豪商、天王寺屋の津田宗及が催す茶会に招かれていた。今川義元の「黄金の法」によって静謐が保たれた畿内において、この茶室は天下の情勢が静かに、しかし濃密に交わされる社交の場であった。
「光秀様、よくぞお越しくださいました。今宵の茶は格別ですぞ」
宗及が点てた茶を一口啜り、光秀が静かに語り始めた。
「宗及殿、駿河の氏真様が鉄砲の調達を進めております。武田が動くのはまだ先とは見ておりますが、備えに抜かりはあってはなりませぬ。」
宗及が応じようとしたその時、光秀は屋敷の庭先にただ者ならぬ気配を纏った一人の武士の姿を認めた。
「宗及殿、あの方はもしや」
「ああ、美濃の稲葉家を出奔された斎藤内蔵助利三殿にございます。此度の茶会にも招いており、先ほどまで私と一服汲み交わしておりました。武勇のみならず、茶の湯にも深く通じ、実に見事な点前をされる御仁でしてな。今後について相談されておりまして」
光秀は庭へ下り、利三に声をかけた。利三はかつて光秀と同じ美濃に身を置いていた縁があり、その実直さと武勇は光秀も聞き及んでいたところであった。
「内蔵助殿。西美濃三人衆の一角、稲葉良通殿の重臣であった貴殿が、なぜこのような場所に」
利三は苦渋に満ちた表情で、静かに頭を下げた。
「……光秀様。私は、主君良通様に幾度も諫言をいたしました。しかし、良通様は世迷い言を、と私の言葉に耳を貸さず、立てた武功も評価されぬ始末。もはやあの家で尽くすべき道を見失い、出奔した次第にございます」
利三の瞳には、己の信念を曲げられぬがゆえの孤独と、才を活かせぬ無念が滲んでいた。武田信虎と出会う以前の己と同じものを感じた光秀は、利三の言葉を静かに聞き届けた後、真っ直ぐにその目を見据えた。
「内蔵助殿。……ならば、私に仕えぬか」
利三が顔を上げると、光秀は言葉を継いだ。
「今川義元公が目指す『黄金の法』は、貴殿のような誠実なる諫言を重んじる世。私はその法を支えるため、知恵と武勇を持つ者を必要としている。……一万石で私に仕えてほしい。貴殿のこれまでの功績と、その揺るぎない志に報いるためには足りぬかもしれぬが」
茶室から見ていた宗及も息を呑んだ。一人の陪臣(家臣の家臣)に与える禄としては、当時では考えられぬ破格の厚遇である。
利三の肩が微かに震えた。だがそれは、一万石という莫大な領地に目が眩んだからではない。
(一万石……。このお方は、かつての主君が『世迷言』と切り捨てた私の志を、それほどまでの重みをもって受け止めてくださるのか)
智勇のみならず己の信念を、一万石に値する価値があると認めてくれた。その「心」の深さに、利三の魂は震えたのだ。
「……光秀様。利三、感服いたしました。一万石の禄高よりも、私の志をそれほどの高禄として評価してくださった貴殿の御心に、今この時より命を預けさせていただきます。この命、貴殿と義元公の掲げる法のために捧げましょう」
利三はその場に深く平伏し、光秀への臣従を誓った。
「良いお方を家臣とされましたな、光秀様。」
宗及の言葉に、光秀は頷いた。
「左様。秀吉殿が駿河で時を稼ぐ間に、我らはここ畿内で『理』の力を蓄えねばならん。内蔵助殿、まずは堺の鉄砲事情をその目に焼き付けてもらおうか」
「御意にございます」
利三の言葉に、光秀は月を見上げ、深く、そして満足げに頷いた。
「……いやはや、宗及殿。今日は実によい一日でした。昼には清右衛門の工房で羽柴秀吉という、天下を語れる稀代の友を得て、夜にはこの茶室で斎藤内蔵助という、右腕となる無二の家臣を得た。……これほどの縁に恵まれた今、私の行く末に一点の曇りもございませぬ」
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