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義元英雄伝  作者: 日向 守
上洛編

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第百七話 信玄と義信


駿河が羽柴秀吉の指揮下で「防壁」と「鉄砲隊」の調練に沸き、氏真を中心に一枚岩となりつつあった頃。


甲斐・躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたの奥座敷では、香炉から立ち上る細い煙を挟んで、武田の父子が対峙していた。


障子越しに差し込む薄光が、信玄の険しい横顔を照らす。その眼光は、届けられた密偵の報せを読み解くほどに鋭さを増していた。


「……信じられぬ。あの氏真殿が、これほどまでに」


信玄の嫡男、武田太郎義信は、手元の書状を読み上げると感嘆の声を漏らした。


書状には、菊川の治水工事の成功 、兵農を問わぬ才覚登用 、羽柴秀吉という異才の抜擢 、鉄砲隊の整備など、今川氏真の果断な政が綴られていた。


義信は目を輝かせた。


「今川は義元公が京へ上り、抜け殻になったと見ておりましたが……治水をもって民の心を掴み、鉄砲を揃えて国の理を変えようとしている。氏真殿、真に名君の器となられましたな」


義信の表情は明るい。彼の妻は今川義元の娘であり、氏真とは義理の兄弟にあたる。同盟国である今川が強固になることは、彼にとって純粋な喜びであった。


だが――深く腰掛けた信玄の反応は、真逆であった。


「太郎よ。其方は相変わらず、物事の日向しか見ぬ男よな」


義信は戸惑いの表情を浮かべた。


「……父上? 何か不都合がございましょうか」


信玄は苦々しく鼻を鳴らした。


「不都合だらけよ」


信玄は書状を指で弾いた。


「氏真を暗愚と侮っていればこそ、いつでも駿河の海を飲み込めると思うておった」


義信は息を呑む。信玄は続けた。


「だが、身分に囚われず人を使いこなし、鉄砲を揃え、民を味方につけた今の今川は容易に手を出せぬ巨大な国となりつつある」


信玄の声は低く、重かった。


「義元の黄金の法を継ぎ、氏真が才覚の国を作り始めた。これは、武田にとって最大の障壁となる」


義信は唇を噛んだ。


「しかし父上、我らと今川は甲相駿三国同盟の誓約がある。義をもって結ばれた仲を、利のために疑うは……」


「義、だと?」


信玄の目が、獲物を狙う猛禽の如く光った。


「太郎。其方の言う義は、平時の飾りに過ぎぬ」


義信は言葉を失う。信玄は、静かに、しかし鋭く言い放った。


「今川が堺の富を吸い上げ、鉄砲で武装し、駿河を要塞化すれば甲斐の山奥に閉じ込められた我らは、いずれ兵糧一つ届かぬ干物となろう」


義信の顔色が変わった。


「氏真が有能であればあるほど、武田にとっては脅威なのだ」


信玄の声は、氷のように冷たかった。信玄はふと、遠い目をした。


「……三好長慶が畿内で再起した折、我は甲州透破を送り、暗に協力を申し出たことがあった」


義信は驚いた。


「父上が……三好に?」


「うむ。今川・武田・三好で畿内を分かつ腹積もりであった」


信玄は苦笑した。


「だが長慶は言った。要らざる手を出すな、とな」


義信は息を呑んだ。


「その長慶が認めた義元の黄金の法。そして今、氏真が駿河で完成させようとしている新しき国。これを脅威と見ぬ覇者などおらぬ」


信玄の眼光は、再び鋭く光った。義信はなおも食い下がった。


「しかし……氏真殿は義兄上。我らは家族同然の――」


「太郎、下がれ」


信玄の声は、冷たく、拒絶そのものだった。


「其方の温い情を聞きたくはない」


義信は拳を握りしめ、唇を噛んだ。その瞳には、父への失望と、氏真への友情が入り混じった複雑な光が宿っていた。


だが信玄は、息子の心の揺れなど意に介さなかった。入れ替わりに現れた近習に、信玄は視線を向けた。


「……今川の鉄砲隊、そしてあの猿と呼ばれる男の動きを逐一報告せよ」


近習は深く頭を下げた。信玄は続けた。


「氏真が手を出せぬ国を完成させる前に、我が風林火山がその喉元を食い破れるか否か。時は待たぬぞ」


香炉の煙が、ゆらりと揺れた。甲斐の山々に、不穏な風が吹き抜ける。


今川と武田。かつての盟友が、それぞれの「正義」と「生存」を懸けて衝突する日は、もはや遠くなかった。


そして武田信玄の胸には、静かだが確かな決意が芽生えていた。駿河侵攻。その火蓋は、すでに切られつつあった。


ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。

評価及びリアクションいただけると幸いです。

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― 新着の感想 ―
いよいよ義信が出てきましたか・・・でも信玄の考えも分からなくはないんですよね。 このまま今川が勢力を拡大し続けたら、甲斐や信濃は海がないからいつまで経っても鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛や鉄砲を使う為に必…
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