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義元英雄伝  作者: 日向 守
上洛編

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第百六話 火縄の調べ


安倍川の模擬合戦から数日。

駿府館の広間には、かつてない緊張感と、どこか清々しい空気が同居していた。

上座には今川氏真。その左右には丹羽長秀、そして模擬合戦で秀吉に膝を屈した三浦真明ら譜代の重臣たちが並ぶ。

かつて秀吉を「猿」と蔑んでいた者たちも、 今は静かにその発言を待っていた。 安倍川でのあの光景が、彼らの価値観を揺さぶったのだ。

議題は、甲斐の猛虎・武田信玄への対策である。

氏真は、静かに広間を見渡した。


「……さて、皆の衆。 三国同盟があるとは言え、武田が信濃を平らげ、その鋭鋒はいつ我が領国に向いてもおかしくない。如何に備えるべきか」


その声音は、かつての蹴鞠と和歌の若殿のものではなかった。 安倍川での模擬合戦を見届け、 才覚が国を動かすという事実を理解し始めた男の声だった。


三浦真明が、かつてない真剣な面持ちで口を開いた。


「殿。武田の騎馬隊は確かに天下無双。我ら譜代の将も死力を尽くしますが、従来の戦い方のみでは、あの地響きを止めるのは至難かと……」


三浦は一度、秀吉の方へ視線を向けた。


「羽柴殿。貴殿なら、あの猛り狂う虎をどう御する?」


広間にざわめきが走る。つい数日前まで猿と呼ばれていた男に、譜代の重臣が意見を求めたのだ。秀吉は一瞬驚いた顔をした。胸の奥に、まだ消えぬ不安が渦巻いていた。


(……わしなんかが……こんな場で……本当に、口を開いていいのか……)


だが、三浦の真剣な眼差しに押され、秀吉はゆっくりと膝を進めた。


「三浦殿、それでは失礼して……」


秀吉は深く息を吸い、震えを押し殺した。


「某が考えまするに、武田の騎馬を止めるには、人の力だけでは足りませぬ。 雷を揃える必要がございます」


「雷だと? 秀吉、それは鉄砲のことか」


氏真の問いに、秀吉は力強く頷いた。


「はっ。堺、あの地には他家の大名方が喉から手が出るほど欲しがる火縄銃が溢れております。武田の騎馬がどれほど速くとも、鉛の玉より速くは走れませぬ」


秀吉は地図の上に手を伸ばし、峠道を指し示した。


「武田が駿河へ入るには、険しい峠を越えねばなりませぬ。そこに防壁を築き、足を止めたところを、揃えた鉄砲で一斉に射ち抜くのです」


秀吉の声は震えていたが、言葉には確かな熱があった。


「武勇や数に頼るのではなく、仕組みと道具で勝つ。これこそが某の考える武田対策にございます」


かつてなら「飛び道具に頼るとは卑怯な」と一蹴したであろう三浦真明が、深く頷いた。


「……羽柴殿の言う通りだ」


広間が静まり返る。三浦は続けた。


「武田の個の強さを、我らの組織力と新しき理で封じ込める。安倍川で見た貴殿の兵の結束……あれこそ、今川が進むべき道にございます」


三浦の声には、敗北の痛みと、そこから生まれた確信が宿っていた。


「殿、堺の今井宗久殿を通じ、早急に鉄砲の調達を行いましょう!」


氏真は、秀吉の先見性と三浦の度量に満足げに微笑んだ。


「よし」


氏真は秀吉に向き直った。


「秀吉。其方を鉄砲奉行に命ずる。宗久と連携し、駿河を火縄の調べで満たせ」


秀吉は思わず息を呑んだ。


(て、鉄砲奉行……!?わしが……?本当に……?)


秀吉の肩に、氏真は手を置いた。


「安倍川で見せた結束は、武田の騎馬よりも強い。その力を、今川の柱とせよ」


次に氏真は真明へ視線を向けた。


「真明。其方は鉄砲を最大限に活かす陣構えを練れ。武士の誇りと、新しき理を合わせた戦を作るのだ」


そして広間全体に向けて、氏真は高らかに宣言した。


「……今川は、もはや古き武家ではない。法と、知恵と、絆の国であることを、信玄に見せてやろうではないか」


広間に、静かだが確かな熱が満ちた。


軍議が終わり、秀吉は一人、庭に出た。夕陽が駿府の空を赤く染めている。秀吉は拳を握りしめた。その背後で、長秀が静かに呟いた。


「秀吉。其方の弱さは、兵を結束させる力となる。その力は、武田にも負けぬ」


秀吉は振り返り、深く頭を下げた。


「長秀様……。某、やってみせます」


駿河の空に、夜の帳が降り始めていた。その闇の向こうには、武田信玄という巨大な影が潜んでいる。


だが今川には――義元の法、氏真の寛容、秀吉の才、真明の誇りが揃っていた。


ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。

評価及びリアクションいただけると幸いです。

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