第百四話 天性の兵法
駿府を流れる安倍川の河原。水面は穏やかだが、その両岸には、まるで別世界のような、二人がそれぞれ選別した軍勢が向かい合っていた。片や、三浦真明率いる五百。槍の穂先は揃い、甲冑は磨き上げられ、掛け声は山を震わせるほど整然としている。真明と同じく秀吉の出世を面白く思わない、それなりの身分の者を集めたのだろう。
そして対岸には――喧騒と泥にまみれた、雑多な集団。羽柴秀吉が選んだ兵五百である。足軽、農民、町人上がり。具足は継ぎ接ぎ、槍の長さもまちまち。掛け声は揃わず、動きもぎこちない。だが、その中心で泥にまみれ、汗を流し、兵たちと共に巨大な石を運び、焚き出しの粥を自ら配って回る男がいた。羽柴秀吉。
高櫓の上からその光景を見下ろす今川氏真は、秀吉の姿を凝視していた。
「長秀。秀吉は、古の兵法家・呉起の故事を知っているのか?」
呉起――部下と寝食を共にし、負傷兵の膿を自ら吸い出し、兵の心を掴んだ逸話を持つ、孫武と並び称される兵法家。その名を口にする氏真の声には、知への探求と、秀吉という男の正体を見極めたいという静かな熱が宿っていた。丹羽長秀は微かに首を振った。
「いえ、おそらく知らぬでしょう。文字すら覚束ぬあの男が、唐土の兵法書を紐解いたとは思えませぬ。」
氏真は目を細めた。
「ならば、あれは天性か。兵と寝食を共にし、泥にまみれるあの姿は……」
秀吉は、兵の足にできた傷を見つけると、自ら布を裂いて巻き、「無理するなよ、兄弟」と笑って肩を叩いていた。その姿は、兵の指揮官というより、村の兄貴分に近かった。
長秀は、秀吉が兵の一人に肩を貸し、冗談を飛ばして笑わせている様子を見て、静かに言葉を継いだ。
「殿、呉起のそれは、己の栄誉と勝利のための徹底した計算でございました。兵に恩を売り、死地へ向かわせるための冷徹な術策です。」
氏真は頷く。長秀は続けた。
「……しかし、秀吉は違います。」
「違う、とは?」
「秀吉は、自然にやっておるのです。自らが農民であったがゆえに、腹を空かせた兵の辛さが、泥に足を取られる足軽の苦しみが、理屈ではなく骨身に染みているのでしょう。」
長秀の声は淡々としていたが、その眼差しは鋭かった。
「計算ではなく、ただ生きて勝たせたいという一念。それが兵たちの心を、三浦殿の威圧よりも兵を強く結束させております。」
氏真はその言葉を反芻するように頷いた。
(――真明は兵を駒として扱う。秀吉は兵を仲間として扱う。十日の調練で育つものは、技と結束力か。)
秀吉の陣営では、兵たちが驚くべき熱量で動いていた。秀吉は、槍の振るい方だけでなく、「なぜこの戦に勝たねばならぬか」を説き続けていた。
「ええかお前ら!」
秀吉の声が河原に響く。
「三浦殿の名門の誇りなんざ、腹の足しにはならん!じゃが、わしらが勝てば――生まれがどうあれ、働けば報われるという殿の考えが本物だと証明できるんじゃ!」
兵たちの目が変わった。
「わしらの子供が、その才のままに生きられる世を作るんじゃ!!」
その叫びは、最下層の兵たちの魂に火をつけた。彼らにとって、この模擬合戦はもはや「演習」ではない。己の人生を懸けた革命であった。一方、対岸でこれを見ていた三浦真明は、鼻で笑った。
「烏合の衆が、飯を食うて騒いでおるだけか。武士の戦が何たるか、骨の髄まで教えてくれるわ。」
だが、真明の声には、どこか焦りが混じっていた。
十日が過ぎた。安倍川を挟んで対峙する、二つの五百。三浦隊は、装飾が光る甲冑に身を固め、
静まり返った森のような威圧感を放っていた。秀吉隊は、継ぎ接ぎの具足を纏い、しかしその眼光だけは飢えた狼のように鋭かった。高櫓の上で、氏真が扇子を高く掲げた。
「これより、模擬合戦を始める。駿府の在り方、いずれにあるか――この氏真に見せてみよ!」
鬨の声が、駿府の空を真っ二つに引き裂いた。
呉起は兵法家というより将軍のイメージですかね。孫武は浮世離れした兵法家のイメージですが。
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