第百三話 生まれと才
駿府館の廊下。羽柴秀吉は、奉行としての報告を終えたものの、胸の奥には重いものが残っていた。
(……わしのような者が、今川家の評定に顔を出してええのか?殿は信じてくださるが、家中の者は……)
そんな不安を抱えたまま廊下を歩いていると、鋭い視線が秀吉の背を射抜いた。三浦真明――今川家の古参で、武勇を誇る家柄の嫡男。その三浦が、秀吉の前に立ちはだかった。
「……羽柴殿、と言ったな」
秀吉は思わず背筋を伸ばした。
「は、はい。何か……?」
真明は鼻で笑った。
「治水だの伝馬だの、小役人の如き差配は農民上がりにはお似合いよ。だがな、ここは武士の庭だ。猿が評定にまで面を出すのは、家中の秩序を乱す不快極まりないことよ」
秀吉は喉の奥が熱くなるのを感じた。言い返そうとした言葉は、自身の出自という重石に押し潰される。
それでも、秀吉は震える声で答えた。
「三浦殿……民が豊かであれば、兵も強くなりましょう。戦の前に国を整えるのも、武士の務めに……」
「口が達者よのう、猿め」
遮る言葉には明確な侮蔑が籠もっていた。秀吉が拳を握りしめたその時、背後から凛とした声が響いた。
「真明」
氏真である。三浦は慌てて膝をついたが、その言の葉はなおも尖っていた。
「も、申し訳ございませぬ、殿。しかし、このような者を重用されては、家中の秩序が――」
氏真は首を振った。
「才の優劣とは、生まれで決まるものではない」
氏真の瞳には、かつての軟弱な面影はない。人質時代から秀才の誉れ高かった元康と比較され続け、己の凡庸さと向き合ってきた氏真だからこそ言える、魂の叫びであった。三浦の顔が強張る。
「生まれで優劣が決まるなら、戦国の世はとうに終わっておる。武田信玄は、才ある者を身分に関わらず登用しておる。父上もまた、堺の今井宗久を才で遇したと聞く」
三浦は唇を噛んだ。秀吉は、氏真の言葉を聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。だが、三浦はなおも食い下がる。
「……しかし、武士の家に生まれた我らが、農民上がりに劣るなど、どうしても理解できませぬ」
「理解できぬと言うなら、確かめればよい。真明、秀吉。各々、兵五百を選抜せよ。十日の調練の後、模擬合戦を行う。武士の誇りか、農民の才覚か。十日後に答えを出せ」
秀吉は青ざめた。
(ご、五百……!?わしに……?武働きは初めてだ。そんな大役、務まるだろうか……)
三浦は顔を紅潮させ、勝利を確信した笑みを浮かべて平伏した。
「……御意。必ずや、武士の力をお見せいたします」
秀吉は震える声で膝をついた。
「……殿。そ、某などに務まるかどうか……正直、不安にございます」
一連のやりとりの後、一人震える秀吉の肩に、氏真は優しく、しかし力強く手を置いた。
「不安でよい。不安を抱えながらも前に進む者こそ、真に強い。秀吉。其方の人を動かす力を、私は信じておる」
退出する秀吉に、今度は何彼と世話を焼いてくれた丹羽長秀が声をかけた。織田家の降将でありながらも今川家中で重きをなしている男である。
「秀吉」
秀吉が振り返ると、長秀は穏やかな笑みを浮かべていた。
「顔色が悪い。不安か?」
「……はい。某に、兵五百など……どう扱えばよいのか……」
長秀は穏やかに笑った。
「それでよいのだ。不安を抱えた者は、慎重に動く。慎重に動く者は、無駄に人を死なせぬ」
秀吉は息を呑んだ。長秀は続けた。
「十日で兵五百を鍛えるのは容易ではない。だが、お前には人を惹きつける力がある。それは鍛えてどうこうできる才ではない」
秀吉は深く頭を下げた。
「長秀様……ありがとうございまする」
長秀は秀吉の背中を見送りながら、心の中で呟いた。
(――この模擬合戦は、駿河の未来を決める。秀吉が勝てば、駿河は才覚の国となる。三浦が勝てば、古き武家の秩序が残る)
しかし、長秀は確信を持っていた。
(……だが、秀吉は勝つ。あの男は、不安を抱えながらも前に進む強さを持っている)
模擬合戦の噂は、瞬く間に駿河を駆け抜けた。
「農民上がりの秀吉が、三浦様と戦うらしいぞ!」「十日で兵五百を鍛える? あの猿が?」「いや、秀吉殿は治水でも奇跡を起こした。何かやるかもしれん」
期待と嘲笑が渦巻く中、秀吉は夜の駿府城下を一人歩いた。自ら手掛けた市の灯りを眺め、冷たい夜気を吸い込む。
「……三浦殿。わしは強うない。わしが一番、それを知っとる」
秀吉の目には、消えぬ弱さと、それを飲み込もうとする烈火の如き決意が宿っていた。
「じゃが……殿が、長秀様が、わしを信じてくださる。なら、この才、泥にまみれても使い切るしかないわ!」
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