第百二話 羽柴秀吉
京、河内、そして堺。畿内が今川義元の「黄金の法」に塗り替えられていく少し前、今川の本国・駿河では、もう一つの静かな、しかし確かな変革が進んでいた。義元が畿内で法の革命を進める一方、駿府館では、これまでとはまるで別の風が吹き始めていた。
今川の留守を預かる今川氏真は、鼓腹撃壌の世を目指し、領国の内政に没頭していた。その傍らには、尾張から流れてきた異色の才――中村藤吉郎の姿があった。藤吉郎は、駿府の誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝た。武士の身分にこだわらず、農民や町人の中に入り込み、泥にまみれ、汗を流し、笑い、叱り、励ましながら働いた。その姿は、名門今川家の家臣たちにとって異様ですらあった。だが、氏真だけは違った。
(……この男は、ただの成り上がりではない。生きるための知恵を持っている)
氏真は、幼少より人質として駿府にいた松平元康の背中を見て育った。自分よりも遥かに冷静で、粘り強く、優秀な元康。その存在を身をもって知っていたからこそ、氏真は「生まれの尊卑」で人の能力を測る虚しさを、誰よりも理解していた。
遠江の菊川。たびたび氾濫を起こし、周辺の田畑を荒らしてきた暴れ川。この治水工事こそ、氏真が藤吉郎に託した最初の大きな仕事であった。藤吉郎は、足軽同然の格好で泥にまみれ、農民たちと共に汗を流した。その姿を見た家臣たちは眉をひそめたが、藤吉郎は意に介さない。
「殿、川を力でねじ伏せてはいけませぬ。川の行きたい方へ道を譲ってやるのです」
藤吉郎は、川の流れを読み、堤防の形を工夫し、農民たちの知恵を吸い上げ、短期間で難工事を完遂させた。完成した堤防を見た氏真は、しばし言葉を失った。
「……藤吉郎。其方は面白い。その知恵で大地をも変えてしまうのだな」
その時、氏真の中で何かが変わった。義元の「法」とは別の形で、氏真もまた新たな価値観に目覚めつつあった。氏真は藤吉郎を正式に奉行へと抜擢した。素性も知れぬ余所者が、名門今川家でこれほどの速さで出世するのは前代未聞である。
藤吉郎の働きは止まらなかった。 兵糧の備蓄、伝馬制の整備、寄親・寄子制を支える新たな制度、城下の市の再編成。藤吉郎は、氏真の寛容な庇護の下で、水を得た魚のように才を振るい、ついに藤吉郎は足軽大将へと昇進した。御礼のために駿府館を訪れた藤吉郎に、氏真は晴れやかな表情で語りかけた。
「藤吉郎よ。其方、足軽大将ともなれば、いつまでも自称『中村藤吉郎』では良くないな。武士として、今川を支える柱としての名が必要だ」
藤吉郎は恐縮して平伏した。
「滅相もございませぬ。某のような者には、中村の名で十分……」
「いや、私が許す。今の其方にふさわしき新たな名を考えよ」
藤吉郎は数日悩み抜き、ある案を携えて再び氏真の前に平伏した。
「恐れながら……同じ尾張出身で、何でもこなし世話にもなっている丹羽長秀様から羽、鬼柴田と恐れられ、各地で武功を上げた柴田勝家様から柴、今川家の執権ともいうべき明智光秀様から秀、そして自らの名から吉と一字ずつ取り『羽柴秀吉』と名乗りたく存じます」
氏真はわざと眉をひそめ、冗談めかして笑った。
「……なんだ、私の『氏』も『真』もいらんのか?」
藤吉郎は慌てて畳に額を擦りつけた。
「滅相もございませぬ!そんな恐れ多いことは出来ませぬ!殿の名を汚さぬよう、まずは先達の皆様の名を借り、地を這う覚悟で励む所存にございます!」
氏真は声を上げて笑った。
「はっはっは、冗談だ。良い名ではないか、秀吉。其方が『羽』となって駿河を舞い、『柴』となって民の火を灯し、『秀』でた『吉』をもたらす。父上も、この駿河の変革を喜ばれるであろう」
その言葉に、秀吉は深く頭を垂れた。涙が畳に落ちたのを、氏真は敢えて気づかぬふりをした。だが、その沈黙は冷たさではなかった。相手の胸に去来したものを、氏真は誰よりも理解していたからである。それは秀吉に出会う以前の自分も持っていた、誰かに認めてもらいたいという感情、その成就。
名門・今川家の伝統という殻を、氏真がその寛大さで溶かし、秀吉という異能がそこに新たな骨組みを築いていく。義元が京で「法」の革命を起こしている間、本国・駿河は、かつてないほどに強固な国へと変化を始めていた。
史実より八年ほど早い改姓です。鼓腹撃壌については五十九話「藤吉郎」にて。
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