第百一話 義元と久秀
堺の見物を終えた今川義元は、供回りと明智光秀を山門に留め、一人で南宗寺の奥へと足を進めた。
砂利を踏む音すら吸い込むような静寂。松籟が低く鳴り、風が竹林を揺らすたび、どこか遠くで誰かが息を潜めているような気配がした。庭園の奥、三好長慶の墓前には、一人の男が立ち尽くしていた。松永久秀である。義元の接近を知りながら、振り返ることもなく、手向けた線香の煙をじっと見つめている。義元は久秀の傍らで足を止めた。二人の間に、重苦しくも清冽な沈黙が流れる。沈黙は、言葉より雄弁だった。久秀が先に口を開いた。
「……供を遠ざけ、丸腰で近づくとは。義元殿も存外、命が惜しくないと見える」
その声音は柔らかいが、底に刃がある。暗い含意を、あえて隠そうともしない。義元は視線を墓石に向けたまま、静かに返した。
「ここは日ノ本で最も安全な場所よ。長慶殿という、一度は天下をその手にした男の眠る前だ。松永久秀ほどの男が、ここで汚らわしい真似をするはずがなかろう」
久秀の眉がわずかに動いた。義元は久秀の誇りを突いたのだ。久秀は誇りを持たぬ男に見えて、実は誰よりも誇りに縛られている。久秀はゆっくりと顔を上げ、横目で義元を見た。
「三好の危急を静観し、主を暗く沈めたこの久秀に向かって、左様な言葉を吐かれるとは。皮肉が過ぎるというもの」
「皮肉ではない」
義元は墓前に手を合わせた。その所作は、久秀の心を探るための揺さぶりでもあった。
「長慶殿が最期まで其方を信じ、行く末を託した。その事実こそが、この場所を聖域にしておる。其方は、余を殺すよりも、長慶殿の期待を裏切ることを恐れているのではないか?」
久秀の眼に、一瞬だけ動揺の色が走った。それは、久秀が最も触れられたくない痛点だった。だが、彼はすぐに不敵な笑みを取り戻す。
「……外は風が冷えて参りました。一つ、温かい茶でも飲みながら、その『法』とやらについて聞かせていただきましょうか」
久秀が墓前から離れたのは、義元の言葉が図星だった証でもあった。
境内の隅にある小ぶりな茶室へ移動すると、義元が手際よく茶を点て始めた。その所作は、武家の粗野さとは無縁の、洗練された雅そのもの。久秀は目を細め、じっと見入っていた。観察しているのは点前ではない。義元という男の本質である。
「見事な点前。公家かぶれという噂は、どうやら東国の者たちの嫉妬に過ぎなかったようですな」
「なんの」
義元は茶碗を差し出しながら、ふと声を低くした。
「だが久秀殿、其方はどうだ。京、河内、そして堺は余の『黄金の法』に服した。其方は、まだ三好三人衆のような稚児たちと、泥遊びを続けるつもりか?」
久秀は茶碗を手に取り、その感触を確かめるように指先を滑らせた。その仕草は、茶碗を見ているようでいて、実は義元の挑発の意図を探っている。
「法、でございますか」
久秀はゆっくりと茶を啜り、口元に薄い笑みを浮かべた。
「確かに、義元殿の敷いた道は美しい。だが、美しすぎるものは脆い。我ら乱世の徒にとって、法とは力でねじ伏せるための道具に過ぎませぬ。義元殿が消えれば、その黄金は一瞬で砂に還りましょう」
それはあなたは理想家に過ぎぬという挑発だった。義元は微笑を返した。その微笑は、久秀の挑発を見透かした者の微笑。
「なれば、消えぬ仕組みを作れば良い。人が死んでも、法が生き続ける。それこそが余の目指す理よ」
義元は久秀の目を真っ直ぐに見据えた。その視線は、久秀の心の奥底――野心と孤独を射抜く。
「久秀。其方の知略、そして悪をも抱き込む深さ、今の余には必要だ。余の下で、大和の平定を担わぬか」
久秀は茶を一口啜り、ゆっくりと茶碗を置いた。その動作は、返答を考えているのではない。義元の真意を測っているのだ。
「……お断りいたします」
義元の眉がわずかに動く。久秀は続けた。
「今の私は、誰の首輪も欲しくありませぬ。三好の家も、三人衆も、今の私にはもはや興味のない物。
されど、貴方という男が、どこまで本気でこの世を『黄金』に変えようとしているのか。それを見物させていただきたい」
義元は静かに問う。
「仕えぬと申すか」
「今は、にございます」
久秀は薄く笑った。
「もし義元殿の法が、この久秀の想像を超える『真の理』であると分かれば、その時こそ、我が命を盤上の駒として差し出しましょう。それまでは……信貴山の霧の中から、義元殿の行く末を眺めておるといたします」
久秀は立ち上がり、深く一礼した。それは臣下の礼ではなく、対等な観測者としての敬意だった。茶室を出る久秀の背中に、義元が声をかけた。
「久秀。其方が余を見定め、旗幟を鮮明にする日が来るのを楽しみにしておるぞ。その時こそ、余の法が試される時よ」
久秀は足を止め、振り返らずに片手を挙げた。
「その時は……毒入りの茶でも用意しておきましょう」
夕闇が迫る南宗寺。
今川義元は、去りゆく梟雄の背中を見送りながら、再び点前座に座った。
「十兵衛。聞いたか。あれが乱世そのものの姿よ」
奥から現れた光秀に、義元は微かに微笑んで見せた。
堺を掌中に収め、久秀という最大の不確定要素を静観の状態に置いた。
黄金の法は、今、確かな重みを伴って、畿内の大地に根を下ろそうとしていた。
ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。
評価及びリアクションいただけると幸いです。




