第1115話・白昼の悪魔
ブルードラゴン・クロコダイルというワニ系の魔獣の牙(一般的なワニのそれよりも大きい)が俺の背中に当たった。
「くおおお……痛ぇぇ!」
俺は片膝を突き、やや滑りながら体の向きを変え、また魔獣の方を見据える。
床には、傷が入ったらしい防具の背中から滴り出ている血が筋を作っていた。
その間、魔法剣士の女性と、先ほど洗い場に叩きつけられた弓士の一人が攻撃を繰り出し、魔獣は俺や今さっき投げ落とされた女性への連続攻撃はできなくなった。
ただ、彼女たちの攻撃も魔獣を斃すまでには至らない。ワニのような見た目の割に四方八方へ俊敏に動くことができるというのは本当だ。
肉片を飛ばし、濁った緑っぽい血を噴き出しつつも、魔獣は舌を伸ばし、剣士の方の女性の脚を捕縛した。
あられもない姿の女性は舌に引っ張られ、逆さ吊りになった。
だが、俺が迫る。
「誰か! 彼女の下に『クッション』を!」
言ってから俺は、『SET』により『TRIP』と『SPIRAL』を同時発動した。
【TRIP(=旅行)・カケル所持魔溜石、A、C、E、G、H、『I』、K、L、N、『P』、『R』、S、『T』】
【SPIRAL(=螺旋形)・カケル所持魔溜石、『A』、C、E、G、H、『I』、K、『L』、N、『P』、『R』、『S』、T】
言下に敵の傍へ。そして自動的に体が横回転、伸ばした剣が敵の緑の舌を斬る、斬る、斬る。回転して、何度も斬撃を与えることができるのがこの『SPIRAL』だ。
そして、ついに魔獣の長い舌は千切れ、緑の飛沫が舞い散った。
その舌に脚を掴まれていた女性は、無抵抗に落下したが、他の女性が作り出してくれた気の『クッション』で床への直の落下は防がれた。
一方、魔獣は短くなった舌を引っ込めると同時、俺へ向け勢いよく前進。その獰猛な牙が並ぶ口で迫ってくる。
だが、俺もすでに『TIE』を発動していた。剣先から伸びた『ネクタイ』のような『気』が、敵の口に一気に巻き付く。
【TIE(=ネクタイ)・カケル所持魔溜石、A、C、『E』、G、H、『I』、K、L、N、P、R、S、『T』】
ワニは強靭な顎を持つ。それ故、噛む力、口を閉じる力はとてつもない。さらに獲物に噛みついたまま、自身の体を回転させる……デスロールという技も持つ。
しかし、口を開ける際の力はそれほど強くない。だから生息地の人がワニを捕まえる際は、口にロープを巻けば問題ないのだ、と聞いたことがある。
だが……。
「どうだ、巻きつけられる気分は? 嫌なもんだろう?」と余裕を見せた一瞬、眼前の敵の口が再び大きく開かれた。『TIE』の気が引きちぎられたのだ。
「普通のワニじゃないのよ、瀬戸さん!」と、誰かが悲痛な声を発する。
「ひ、開く力も半端ないのか! っとお! それなら、みんな、こちらの壁際に寄って!」
俺は跳ねて突っ込んできた魔獣を一度防御魔法・『PLATE(=鉄板)』で押し返してから、周りの女性たちに叫ぶ。
負傷した者は他の者が手を貸し、女性たちは俺の背後……脱衣所側の壁に寄った。
それを確認しながら、俺は両手で握った剣を体の横へ引く。
「あいつの後ろの壁の、その向こう側が気になるけど……。行くぜ! オデッセイ・オブ・ナイトッ!」
【KNIGHT(=騎士)・カケル所持魔溜石、A、C、E、『G』、『H』、『I』、『K』、L、『N』、P、R、S、『T』】
振り下ろした剣から幾つもの雷光を伴った青白い気の衝撃波が出て、あっという間に魔獣を呑み込んだ。
視界はすぐに閃光の幕に覆われ、一瞬、まるで風呂場という空間が膨張したように天井や壁が外側へ湾曲したように見えた。
同時に爆音と爆風が耳や皮膚も襲う。背後の女性たちも悲鳴を上げた。
衝撃波がはね返ってきたようで、俺も女性たちと横一列となる場所まで押され、いつの間にか背中が壁にぶつかっていた。
女性たちの2名ほどは、開いた戸を抜け脱衣所の方まで転がってしまったようだ。
魔法発動者の俺も、その威力にややたじろいでしまう……。
数秒後、『KNIGHT』の気が萎むのと同時に、反対側の壁の大部分、その辺りの天井が一部崩れ、その先の通路(北門と中庭を結ぶ)が露わになった。
魔獣は黒焦げで丸まり、その通路に転がっている。雷光の気を受け、丸焼けとなったらしい。
そこに風が吹くと、一部が煤となって舞った。
もう一向に動く気配はない。斃せたらしい。
ただ、しばらくして冷静さを持ち直した『黒衣の花嫁』の人たちが、俺を非難した。
「ど、どんな強い魔法を使ったのよ、君?」
「建物ごと崩れていたらどうするつもりだったの? 後先考えて撃ったの?」
「私たちだって、そりゃ特大攻撃魔法連発すれば、斃せたわよ……ねえ?」
彼女たちが助けてもらった感謝もなく怒るのは、やはり『苛立ちやすい』という変化が起きているからか?
いや、通常の場合でも怒られて当然かもしれない……。風呂場の壁だけではなく、通路の先にある訓練場の壁も、どうやら歪んでいる。そこの壁は訓練場の壁ということもあって魔溜石の粉が使われ魔法に耐えうる強度になっているはずだが、数十メートル先のそれが歪んだわけだ。
『KNIGHT』の威力を改めて実感したと同時に、反省もすべきか……。
先ほどの爆撃音と、見れば風呂場の壁が破壊されているということもあって、アパートの住人である他の『黒衣の花嫁』メンバーや中庭のテントにいた者たちが恐る恐る集まっていた。
『グラジオラス』メンバーが来ていたら外出許可が取り消されていたかもしれないので、来ていなくてよかった。
ただ、集まっている者の中にはやはり、こんな魔法を発動したとして俺をガミガミと注意する人もいた。
そんな中、風呂場にいた女性たちをはじめとした数名の『黒衣の花嫁』メンバーが壁を魔法などで何とか修繕すると言ってくれたのは助かる。
その女性の一人が言った。
「……よかったわね、クレンペラーキャプテンたちが魔獣退治に出かけていて、もう居なくて。もっと厳しく注意されていたわよ、君」
「あ、ああ、そうですね……。朝霞さんなんか、常にスイッチが入った状態なんだろうな、『この世界』では……。でも、こんな時間にもう魔獣退治に出かけたのか。すごいな、あの人たちは……と言うか、もう昼か」
俺は苦笑いしながら独り言つ。
その時、背中が鋭く痛んだ。戦闘時はアドレナリンの分泌であまり感じなくなっていたらしい、咬傷による肩から背中に掛けての痛みがまた徐々に増してきている気がした。
俺は脱衣所で一度防具を脱ぎ、切れ目が入った中のTシャツも脱ぎ、鏡を使って背中をよく確認してみた。
「うわっ……切れてるよ……って! 何だ、このコブは?」
俺は驚きの声を上げ、一旦鏡から視線を逸らし、風呂場から流れ出てくる湯気によってできた鏡の曇りをタオルで拭きとってから、改めてそこに背中を映す。
そしてまた息をのんだ。
肩から背中に掛けて微かに赤い血の筋ができている。しかしもはやそれはどうでもよい。この程度なら治癒魔法で跡も残らないだろう。
それよりも、自分の両肩がいつもより少し隆起している!
初めは戦闘中にどこかへ打ちつけ、そこが腫れ上がってコブとなったのかと思ったが、これほど左右均等に肩を打ち付けた覚えはない。
それに、膨らんでいるのは背中も同じだ。どちらも触れてみると硬い。
肩と背中に異様な筋肉がついているのだ。
「これは……『変化』か? そう言えば、肩が凝っている感じがしていたような……。この『世界』で、急に起こる変化……これは本日から始まった『変化』なのだ、きっと」
一人呟き、ひとまず治癒。
そして、Tシャツだけを着て防具を持ったまま大浴場を後にした。
そこで運よく、トラヒメを散歩させるためだろう、外に出て来ていた雛季とミュウ、そして後をついて歩くケルベロ・キャットのカンナを見つけることができた。
「ああ、お兄ちゃん! お風呂に入っていたの?」
「出かけるんじゃなかったの?」と、ミュウの口調はやはりやや厳し目だ。
俺は苦笑いを浮かべつつ、肩や背中のことを訊いてみた。
「背中? ああ、大きいよね、お兄ちゃん。それが何かイライラするの!」と、雛季は応じた。
「そんな理由でイラつかれても……」
雛季は元が優しく明るく真に怒ることがない性格なので、この『7日目の世界』の苛立ち設定でキャラが崩壊しかけている……。
そこで、草にオシッコを引っ掛け終わったトラヒメが、のんびりした声で言った。
「お尻もやけに大きいね。プリケツだ」
「プリケツ……? ケツをフリフリしているお前に言われたくないけど……ああ! 何だよ、確かに尻も一回り大きいな! 気づかなかったぜ」
自分のお尻を触ると、普段よりも大きめのお尻があって、自分のお尻を触っている感覚があまりない。しかもどちらかと言うと硬いお尻なので、まるで鍛えられた男の尻を掴んでいるような感じだ。
この『世界』の住人である雛季たちにとっては俺が背中や肩がモリモリで、ケツにも筋肉がついた男でおなじみになっているようだが、これは明らかに『変化』だ。
この7日目に加わった『変化』なのだろう。
魔獣に噛まれて傷を負っていなかったら見落としていたかもしれないわけで(自分の体の変化なのに情けないが、それよりも他の女性たちの裸身に目が泳ぎまくって自分の体のことを放置していた結果か)、怪我の功名かもしれない。
とにかく俺は防具を身に着け、ここで雛季たちと別れ、残る『変化』探しを再開するため『ビッグドーナツ』の門の外へ出た。
街に出ると、これまでよりもどこか騒がしい気がした。『午前中はみんなゆっくり過ごす』という習慣が加わって(変化の一つ)からは、この時間は街が動き出し始めたばかりで比較的静かなはずなのだが、今日は違う。
遠くで叫ぶ声や悲鳴が聞こえ、サイレンのようなものが鳴っている。
開いたばかりと思われる店から聞こえる『テレビ』や『ラジオ』の音は大きくされ、キャスターの声はこれまでのように楽しげではなく、どこか警告じみていて緊迫感がある。
何より、外に出ている人の多くは武装している。『エイト剣』、『エイト弓』を持った魔法剣士や魔法弓士以外にも、普通の武器、あるいは包丁や鍬など凶器となり得る道具を手にした一般人も多い。それら通りにいる一般人に女性、子供、年寄りは少なく、男性がほとんどだ。中には体つきのいい女性もいるが、そういう人もやはりフライパンなどを持って表に立っている。
それらの人があちらこちらで数十人の人だかりを作り、何か真剣に話し合っているのだ。
彼らの中には例によっていがみ合っている者もいるが、彼ら同士のことでがケンカをしているというわけではないようだ。何かを話し合っている過程で時折衝突しているだけのようだ。
「一体、どうしたんですか?」
俺は『ビッグドーナツ』の北の小広場に集まっている人たちに声を掛けた。
「あん? ああ、あんた、魔法剣士か」と苛立った様子で呟いた男は、俺の『エイト剣』に目を向けると少し口調を和らげる。
「また魔獣が現れて、あの通りさ。ああ~、修繕しないといけねぇな、クソ!」
魔獣? また……?
確かに、男が指差した方を見上げると、幾つかの建物の壁にヒビや穴ができている。飛び上がった魔獣の爪などでできたものか?
「そこのアパートに住んでいる『黒衣』の……クレンペラーさんだったか? あの人たちはどこ行った?」と別の男性が言い、傍にいた女性が答える。
「あの人たちはまた別のところの魔獣退治に行ってしまったよ。そっちでも起きているらしい」
なるほど、ここに現れた魔獣はクレンペラーさんたちが退治したのか……。
風呂場で『黒衣の花嫁』の人たちが言っていた魔獣退治とは、魔溜石採取のために森などへ向かったということではなく、ここのことだったわけか……。
いやいや、まったく納得できないぞ!
「べ、別の場所って、それも街中ですか?」と、俺は誰に向けるわけではなく訊ねた。
先ほど俺に答えてくれた人が、やはり眉根を寄せた顔で言う。
「そりゃそうだよ。外にいる魔獣のことなら、そこまで急がないだろ」
当たり前だと言わんばかりの返事に、俺は絶句した。
どうしてそんなに魔獣が街中へ? という質問は、する意味がないだろう。
これが、この『7日目』から起き始めた変化の一つなのだ。
魔獣が頻繁に、『ゴブレット』内の街中に出現することが当たり前の世界……。
だから、『ビッグドーナツ』の風呂場にも魔獣が現れたし、『黒衣のメンバー』もそこに疑問を抱いてはいなかった。
混浴、上半身裸の人々、過剰な愛情表現とオープンな性生活。そんな日常を好み、『幻影の世界』を繰り返している池田さんが、この7日目までは進まず、6日目で戻るようなことを言っていた理由もわかる。
『人々が苛立ち、怒りっぽくなっている』という『変化』も煩わしいものだが、それよりも数段に厄介な『変化』が起きるから、オッサンはこの7日目にはもう進まないと決めたのだ。
遠くの悲鳴、慌ただしい往来、時折鳴るサイレン。剣呑とした雰囲気は続くが、俺は今日も北上した。
『魔獣が街中で頻繁に出現する』。これを当然『7日目の変化』とすると、俺の背中や尻が大きくなっているという『変化』も含めて、5つの変化は出揃っている。
ただ、昨日『6日目』の変化の一つがわかっていない。
『6日目の変化』は『6日目』に戻った時に探す方がわかりやすい気もするが、わずかに軽くなった重力に慣れ始めたこともあるように、時間が経てば絶つほど感覚が曖昧になり、見逃してしまうような些細な変化が残っているかもしれない(実際昨日も見逃してしまった)。
だから、記憶が混線する前に、今日も一応『6日目』から繰り越されている残り一つの『変化』を探しに回った方がいいだろう。
もちろん魔獣と遭遇したら、それだけ身の危険は増加するが、街には俺以外にも魔法剣士や弓士が多くいるし、信用はできないが衛兵や中央本部兵も警邏している。慎重に進めば大丈夫だろう……。




