第1113話・沸点36℃
朝。窓から外に広がる空は……黄緑色。
やはり起きていたのだ、『変化』が……新しい『変化』……7日目へ突入したことを知らしめる『変化』が……。
「な、何でだ? 何で『5日目』に戻れない? 何が間違っていた?」
爪を噛みながら思わずぶつくさと口にする俺に、伸びをしたケルベロ・キャットが「どうしました?」と訊いてくる。カンナの声だ。睡眠の間にはヤヒコと入れ替わらなかったらしい。
「いや、ちょっとな……」と俺はうなだれるようにしながら言って、またソファーへ向かう。
そこでは松川姉さんたちがケーキを食したり甘い飲み物を飲んでいたりするわけだが、広尾や亀岡さんの皿にはサラダがたっぷり載っていた。
「……肉は食べないの? もしかしてダイエット?」
俺は自嘲的な笑みを浮かべつつ、訊ねる。
二人は「何、こいつ」というような表情で俺から目線を外し、お互い見合ってから、またこちらを見て言った。
「まぁ、いつも太らないようには気をつけているけど、肉? 肉は食べないに決まっているよ。禁止されているんだから」と、広尾は真面目な顔で言った。
亀岡さんの方は、優しい笑みを湛えながら続く。
「瀬戸君なりのジョークだったのかな? 笑った方が良かったのかな?」
「ジョークだったの? それなら、ごめん。何か少しイラついていて、うまく笑えないわ。と言うか、全然面白くないよね?」と広尾はすぐに愛想笑いを引っ込め、怪訝な顔で言う。
「……いや、ジョークでもないんだ、ゆ、夢! そう、夢で見て少し寝ぼけていたんだ! 俺はそんなつまらないこと言わないのさ、ハハハ……!」
無理に笑って返したが、一応もう少し証左が欲しいということで、続いて質問した。
「ちなみに……お二人さん。あとで、どうかな?」
「どう、とは?」と、広尾たち。
「だからその、エ、エッチ的なこと?」と、俺は照れつつ言った。
広尾と顔を見合わせてから、亀岡さんは微笑んだ。
「構いませんよ、私でよければ」
「私も、いいの? 瀬戸君がよければ、じゃあ、シましょうよ」と、広尾も白い頬をやや赤らめて言った。
「え? カケル君、溜まっているのね? それなら、私も!」と、二人の奥に座る松川姉さんが顔を見せて身悶えるような仕草をした。
「ああ~、二人がシているところを我慢して見ているってだけでもいいわ……ハァ、とにかく参加させて~」
「そ、それなら、私も……。こんなオバさんじゃ、ダメ?」と言ったのは、床に座って食事をしていた本庄さんだ。彼女は確か39歳でかなり年上になるが、色気ある大人の女性だ……いや、そんな真剣に考える必要はない! ただ『6日目に起こる変化』が起きているのか、確証を得るために質問をしただけだ。あとは適当に切り抜ければいい。
「ああ、いや、そんなことはないですよ。み、みんな、シましょう……ハハハ!」
「フフフ……昨夜も結構乱れていたみたいだけど、若いからまだまだイケるのね?」と、松川姉さんたちは微笑む。
姉さんはともかく、広尾や亀岡さんや本庄さんの反応はまさしく6日目に起きた『変化』……『性にルーズ・愛情表現が過剰』という世界となっている。
つまり、やはり『5日目への逆戻り』は失敗に終わったのだ……。
そして、本日はこの『幻影世界』の7日目で、また『現実世界』からの『変化』が新たに5つ増えていることになる……。
そのうちの一つが、『空が黄緑である』ことなのだ。
しかし、なぜ失敗したのか?
俺に雑念があったから……いや、眠りに落ちる数分前は、心頭滅却は言いすぎだけど、かなり落ち着いた状態で5つの『変化』を繰り返し頭に思い浮かべることができていたはずだ。そこから眠りまでの移行も、記憶がないことからかなりスムーズだったはず。
それより……。
そもそも、池田さんが言った『現実世界』への『戻り方』は、合っているのだろうか?
あのオッサンが成功した場面を見たわけでもないし、もしかしたらオッサンは伝えきれていると思っていても実は何か大事なことを伝え忘れているのか?
あるいは、俺と池田さんの『変化』の念じ方、その他の感覚に違いがあって、オッサンならうまく行くけど俺は失敗している、それだけなのか?
いや、それよりも、昨日の5つの『変化』の中に、どこか間違いがあったと考えるべきか? 不安である点はやはり『諸塚が坊主頭である』という点だが……。
そこで、大きな声が響き、俺の思考は中断される。
「だからさぁ! すぐ謝ればよかったじゃん? それだったら、私もしつこく言ってないって!」
キッチンの方から歩いて来た宇佐が、同じくキッチンの方から先に出て来てふてぶてしい態度でソファーに座った中間に対し叫んでいるのだ。
実は先ほどからキッチンの方で彼女たちが何やら言い合っているのは聞こえていた。俺が目を覚ましたのも騒がしかったからで、そのうるささの大部分が彼女たちの声に原因があった。
「言っているでしょ、どっちにしたって! 直子の食い意地は並じゃないんだから」と、中間が手をヒラヒラ振りながら、あしらうように言った。
「亜紗美っ! あんた、いっつもそれよね? 人が怒っているのに、茶化して! あんたが今怒られているんだよ! 反省してるわけ?」と、宇佐が珍しく激昂している。
「だから謝ったでしょ? ゴメン、ゴメン! これでいいでしょ? プリン代だって払うわよ……そう、2倍の値段! それでも絶対許さないってあんたの方が悪いじゃん? 私だって前にアイスあんたに勝手に食べられたけど、笑って許したじゃん! 自分の時だけ怒り過ぎよ?」と、中間も抗弁する。
「な、何なんだよ、朝から……」と、俺は耳を塞ぎたくなった。
宇佐は基本的にいつも笑っている陽気な性格で、少なくともここまで目くじらを立てるような姿を俺は見たことがない。
対する中間も、ちょっとクルーな面はあるし過激な発言もするけど、『グラジオラス』女性メンバーに厳しい声を上げることはほとんどなかったと言っていい。
一緒にいることが多い彼女たちだから、それは他のメンバーに対してよりもお互い言いたいことを言え、そして時折それが激し目になる場面はあったが、こんなに激しい口喧嘩は初めて目にした。
だから俺は、松川姉さんたちに助けを求めるような視線を送ってしまう。
「直子ちゃんのプリンを亜紗美ちゃんが勝手に食べてしまっていたから、ケンカになったらしいわ」と、松川姉さんは俺に応える。
「そ、そんなことで? いや、宇佐にとってプリンは大事かもしれないし、中間の態度も悪い気はするけど……」
そこで、寝ていた安城さんが「あ~!」とわめき、四肢をバタバタさせた。
「うるさいなぁ! せっかく心地よくまどろんでいるのに! ちょっと、愛海那! あんたのところのお二人さん! うるさすぎ! どうなってるのよ?」
「う~……私はあんたの方がうるさいけど?」と、言われた鹿角もボサボサの髪を掻き上げながら体を起こした。ちなみに、日焼けした胸は丸出しのままだ。
「キャプテンなら、注意しなさいよ!」と、安城さんは寝ながら叫んだ。その声も確かに耳障りだ。
「うっさいわね……。こういう時だけ都合よくキャプテンって言って……」などと言いつつも、鹿角は立ち上がって宇佐の背後に回る。
「ほら、宇佐ぴょん! もうやめ~!」
「キャフッ! や、やめてよ、キャップ!」
鹿角が宇佐の巨乳を後ろから鷲掴みにして揉んだ。
鹿角の戯れに宇佐も一瞬いつものにこやかな顔になったのだが……また眉が吊り上がり、鹿角を押し離した。
「キャップも、フザけないで! 私たちは真剣に話しているのよ!」
「話と言うか、直子が怒り狂っているだけだけどね~。でも、確かにキャップのその空気読まずにスキンシップしてくるのは正直ウザいよね」と、中間。
さらに広尾もサラダを食べながら言った。
「確かに。同性だからっていいってもんじゃないのよね。やられて迷惑なこともある。相手が嫌だったら、それはもうセクハラよね」
「はあ~? 急に何よ、一斉に私を攻撃? フザけないでよ!」
鹿角もさすがに顔色が変わり、憤然とした口調に。
「お、おい……何かどんどん大きくなっていないか? 暑さでイライラしてる……ってわけでもないよな?」と、俺は慌てる。
松川姉さんや亀岡さんたちは耳を塞ぎながら、ソファーの端に移動。少しでも喧騒から遠ざかろうとする。
「まぁ、いつものことね。そのうち疲れて終わるでしょう」と、姉さんは呑気だ。
「あ~、もう~! 『グラジオラス』うるさい!」
安城さんが叫びながら上体を起こした。もちろん乳房が丸出しだが、もうその指摘はやめよう。
とにかく、安城さんも満面朱を注ぐ如し、の相貌だ。
「『グラジオラス』って、あんたらもそうでしょ? 何回言わせるのよ! 『バンクシア』はもうないの! 『美馬さんエロ軍団』ももうないのよ!」
鹿角の返しに、安城さんは「偉そうに……」と、舌打ち。
さらには美馬さんも上体を起こし、やや棘のある声音で言った。
「『エロ軍団』と言うのはちょっとやめてほしいわね、愛海那ちゃん。品がないわ。あれでも一応、みんな大事にしていたパーティーだったんだから」
「そうですよ、鹿角さん! 美馬さんに失礼ですよ!」と柳井さんも起き出し、眼光を鋭くする。
「いや、そもそも! カノン! 人に命令ばかりしないで、自分で注意したら? そうやっていつまでもダラダラしてるんじゃないわよ! またおっぱいが太るわよ?」
鹿角に矛先を向けられた安城さんは、立ち上がって鹿角の腕を掴んだ。
「太ってないわよ! って言うか、午前中はゆったり過ごすもんでしょうが!」
「痛たたた……馬鹿力で掴むなぁ!」
「何が馬鹿力よぉ!」
「お、おい、落ち着けって! どうしたんだ、みんな?」と、俺は鹿角と安城さんの仲裁に入る(決して体に触れたかったわけではないが、相手に掴みかかる双方にサンドされる形に)。
一方、中間と宇佐、そしてなぜか広尾も掴み合いをしている。
「ちょっと、お隣さん! 騒がし過ぎよ!」
美馬さんグループや安城さんグループ以外の隣室の女性数名がやって来て、注意してきた。彼女たちの剣幕もやや大げさな気が……。
それでも俺は、流れに乗って鹿角たちをなだめる。
「ほら、お隣さんからの苦情も来たぞ。いい加減に……どわっ!」
「邪魔しないでよ、カケル君!」
「そうよ! どさくさに紛れて胸触ってんじゃないわよ!」
鹿角と安城さんに突き飛ばされた俺は、後ろで未だ雑魚寝していた青葉や東御、桜川たちの体の上へ倒された。
「触ってねぇよ……故意には!」と言い返す俺だが、後ろから青葉たちに突き飛ばされた。
「疑われることするからでしょ、瀬戸君!」
「いや、これも不可抗力……うわっ!」
青葉、そして東御が枕を投げつけて来て、俺はそれを顔に食らった。
「な、何なんだよ、一体! ま、待て! 桜川まで……」
桜川も唇を噛み締め、自分の枕を手にしていた。いや、その後ろで美咲までこちらを睨み、「カケル君……いつも君って人は!」と言った。
「これは……」と呟きながら、俺は慌ててドアから外へエスケープ。
閉まったドアの向こう側で、桜川が投げたらしい枕の音がした。
外階段の手前で俺は一息つく。
室内からは、一層ヒートアップした女性陣の金切り声が聞こえている。
「これは、おかしい……。7日目の『変化』の一つが、これか? みんな怒りっぽく、喧嘩っ早くなっているぞ……」
そう言えば、この『幻影の世界』を愉しんでいた池田のオッサンも、5日目と6日目の2日間を繰り返している……つまり6日目の夜では前日に戻るようなことを言っていた。7日目まで進むと、こういう煩わしい人々の『変化』が起こることを経験上知っていたからだろう。
そこで、部屋のドアが開き、ミュウが出てきた。
彼女の足を縫うように、カンナも飛び出してきて鳴いた。
「もう~、みなさん怖いですぅ」
「私も、騒がしいのはイライラする」と、ミュウも言う。
トラヒメもあくびをしながらついて来る。
「イライラするって……ミュウも少しイラついているんだな」と俺は、わずかに不機嫌そうなミュウの顔に気がつき、げんなりした。
「何が? 私はいつもと変わらない」と、ミュウはやはりいつもより冷たい声を発する。
「あ、そう……。じゃあ、訊くけど、みんなの喧嘩は日常的なことか?」
「いつもそう。カケルさんも知っているはず」と、ミュウの返事はやはりいつもより当たりが強めだ。
「人間はどうしてすぐ怒るのかな~?」
そう言うだけあって、トラヒメはいつものようにのんびりと後ろ足で耳などを掻く。
「……他のみんなが日常的なことだと理解している。やっぱり、これも『変化』の一つか……」
直後、背後でも怒鳴り声が聞こえた。
振り返って中庭を見下ろすと、テントから小さい男の子が飛び出して来て、それを追うように顔を見せた母親が怒鳴っている。子供の悪戯か何かに、朝からかなりの剣幕だ。
そして庭を挟んで反対側の外廊下に出ている『黒衣の花嫁』の数名も、何やら口喧嘩をしているようだ。
「あ~、クソ! 本当に厄介な『変化』が起きたな……。絶対間違いなく、5日目に戻らなきゃいけなかったんだ、クソ!」
「カ、カケルさんも怖いニャ~」
俺が階段の柵を蹴ったから、カンナは怯えて少し離れた。なるほど、俺もすでにこの『7日目』の住人のようじゃないか……と、俺は隠れるように溜息をついた。
「もう嫌……。早くタマちゃんと替わりたいけど、タマちゃんもこういうの嫌いだし、一番性に合っているのはヤヒコかニャ」などと、カンナは嘆く。




